知られざる「名将」太田道灌
戦国時代初期の名将「太田道灌(おおた・どうかん)」は、あまり知名度が高くありません。
関東に住んでいる人は名前を1度は聞いたことがあり、銅像などから知っている人は多いかも知れません。しかし。西日本ではあまりその名を聞くことはないでしょう。
その生涯を調べてみると、武将として数々の武勲を立て、歴史になお残すにふさわしい「名将」だったことが分かります。
今回はその太田道灌の、知る人ぞ知る人生について追ってみます。
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彼が生まれたのは永享4年(1432年)。才人と呼ばれるに相応しく、子供の頃からその才覚を表していました。
文武両道で「東国無双の案者(知恵者)」と呼ばれていた父の太田資清(道真)の影響もあったのでしょう。幼少期、すでに鎌倉の建長寺や足利学校といった当代随一の学問の場で頭角を現しています。「五山無双の学者」とまで呼ばれていました。
また、彼の名前を聞いて、まず多くの人が思い浮かべるのが「江戸城を建城した」ということではないでしょうか。
そう、のちに築城名人と言われるほどに、道灌は築城を得意としていました。
それだけではなく、彼は戦場でも多くの策を編み出しています。
戦のイメージといえば、大将同士の一騎打ちが一番に頭に浮かびますが、当時も騎乗している武将がお互いに名乗りあいをして一騎打ち、あるいは合戦をするというやり方が一般的でした。
それを、道灌は変えてしまうのです。
一騎打ちが主流の戦い方だと、足軽は大将の一騎打ちをサポートするという役回りになります。
そこに目を付けた道灌は、足軽のみで部隊を編成し、騎乗している相手の武将を囲んで、引き倒すなどして戦う方法へと変えたのです。
一騎打ちは源平合戦から続いていた戦法ですが、それを彼が様変わりさせたと言われています。