参勤交代により発生した「一極集中型」システム
江戸時代と言えば「参勤交代」というシステムが有名です。
実は近年、この参勤交代システムが、現代の「一極集中型」システムの原型ではないか? という説があります。
現代日本の政治体制は「東京一極集中」と言われ、政治・経済の国の高次中枢機能のほとんどが東京(関東圏)に集中していることを指します。これはいい面もあれば悪い面もあります。
この原型といわれている体制が既に江戸時代から続いている、というのです。
その結果、「都会」に染まった若者と、「田舎」とのギャップが生まれるという現象が、江戸時代の、しかも殿様たちの間でも起きていたというのです。
これは本当なのでしょうか? 探っていってみましょう。
江戸時代に行われた参勤交代は、大名に、自国と江戸を約1年おきに行き来させ、妻や子(世継ぎ)をいわば「人質」として江戸に住まわせるという政治システムでした。
参勤交代の起源は鎌倉時代です。御家人に幕府が領地を与えて、それに対して御家人が見参するというものでした。もともとは、領地を与えられた武士が将軍への忠誠を示すために自発的に行っていたのです。
最初はそんな儀礼行為だったものを、江戸時代に3代将軍・徳川家光が義務付けたのでした。
さて、では、これによって「都会(江戸)」と「田舎(国許)」にどのようなギャップが生まれたのでしょう。
まず、参勤交代が義務となったばかりの初期の頃は、藩主が江戸と国許を行ったり来たりして、妻子は江戸に置いておくことになっていました。
しかしその後は、今までは江戸にいた「子」つまりお世継ぎも、家督を継いで参勤交代を行うことになります。
この場合、このお世継ぎの生まれ育った故郷、国許は江戸になるわけです。そして本来、国許に当たるはずの領地の方が、逆に単なる「訪問先」「赴任先」のようになります。