そんな理由で!?平安時代、子供を殺した男に下された処分があんまり過ぎる……

ニュースを見ていると、児童虐待によって幼い命が喪われる痛ましい事件が後を絶ちません。

いったい何が悲しくて我が子を殺さねばならないのか、正直理解に苦しむところです。

そんな不条理はいつの時代も変わらなかったようで、今回はとある平安貴族のエピソードを紹介。

父は何を思って我が子を殺し、どのような処分を受けたのでしょうか。

一度は検非違使へ突き出したものの……

時は平安中期の寛仁2年(1018年)9月。水取季武(もいとりの すえたけ)という者の息子が木から落ちて亡くなるという痛ましい事故が発生しました。

これだけならただ気の毒という話で終わります。しかしこの季武、実は我が子を殺そうとあえて木に登らせたことが後から発覚。

およそ天下に罪は数多あれど、尊い命を奪うほど重い罪はありません。季武の主人である藤原実資(ふじわらの さねすけ)はその身柄を拘束、故殺(こさつ。故意の殺人)の咎で検非違使(けびいし)に突き出しました。

実資の日記『小右記』に犯行の動機や手口などの言及はなく、そういう事柄についてはあまり興味がなかったか、あるいは激務のあまり書き洩らした可能性も考えられます。

そんな10月のこと。実資の元へ高僧の行円(ぎょうえん)が訪れました。彼はいつも鹿の毛皮をまとっていたことから、皮仙(かわのひじり。革聖)の二つ名で親しまれたそうです。

「どうか水取殿をお許しいただけませぬか」

行円は季武の赦免を願い出ましたが、縁所を犯す(近親者の絆を犯す≒殺す)罪は見逃せず、身柄も検非違使に引き渡してしまいました。

しかし、行円は引き下がりません。

2ページ目 「…気の毒とは思いませぬか」

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