世に「水に落ちた犬は棒で叩け」などと言われるように、苦境にある者は何かとなぶられがちです。
どうせ反撃されまいと高をくくっているのでしょうが、中には毅然と反論する気骨者も少なくありません。
そこで今回は『名将言行録』より戦国武将・平塚久賀(ひらつか ひさよし)のエピソードを紹介。何人(それこそ天下人)であろうが、間違っているものは間違っているのです。
吝(しわ)い家康の仕官を断る
平塚久賀は生年不詳、三浦氏の末裔・平塚三郎入道無心(さぶろうにゅうどうむしん)の子として生まれます。
兄に猛将として名高い平塚孫九郎為広(まごくろう ためひろ)がおり、負けず劣らず大剛の者として知られた久賀に、徳川家康(とくがわ いえやす)からオファーが来ました。
しかし、同時期に石田三成(いしだ みつなり)からもオファーが来ており、久賀はどっちに仕官したものか考えます。
「内府(家康)殿はしわい(吝い)から、手柄を立てても褒美をケチられてしまうだろう」
それなら……ということで石田家に仕官した久賀は、越中守の名乗りを許されました。
「よぅし、張り切って武功を立てるぞ!」
と慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の合戦で兄ともども奮戦した久賀。しかし武運つたなく味方は敗れ、兄は討死。自身も生け捕りにされてしまったのでした。