忠勝の死
前編では、庄内藩初代藩主・酒井忠勝と、その弟の忠重が、藩にもたらした災厄について説明しました。酒井家と庄内藩の受難はさらに続きます……。
前編の記事悪行三昧の結果、餓死者や身売りが続出!庄内藩・酒井家の厄病神がもたらすお家騒動【前編】
高力喜兵衛とその一族が酒井家から排除され、その翌年の1647(正保4)年には忠勝が亡くなります。
ここで、家督を誰が継ぐかが問題となりました。そこで松平信綱の裁定により、忠勝の息子である忠当に継承されることになりました。
ちなみにですが、松平信綱は「知恵伊豆」と呼ばれ、徳川15代の礎を築いたともされる名政治家です。
その彼は、亡くなった忠勝を評して「忠勝は短慮で、わがままな振る舞い、ことに悪人の長門殿(筆者注:忠重のこと)の意見に何かと従った。あと1年・半年も存命だったら酒井の家は破滅しただろう」と述べています。
ひとことで言えば死んでよかったということでしょう。
さて、順調に進んでいるように思われた忠重のお家乗っ取りですが、忠当が家督を継いだことで計画は失敗しました。
そもそも、彼の陰謀もこの時には明らかになっていたようです。忠重から脅されていた毛利長兵衛が取り調べを受け、その白状書から陰謀の存在がばれていたのです。
2万両でついに絶縁
しかし、それでしおらしくなる忠重ではありませんでした。1652(承応元)年、死んだ忠勝の遺言の配分金に自分の名前が載っていなかったのを不服とし、幕府に提訴したのです。
その内容は、「自分は忠勝の遺言で2万両をもらう約束になっている」というものでした。
もちろん本当かどうかは分かりません。当主の酒井忠当もそんな話は初耳でした。しかし彼は家臣と相談して、あえてこの申し出を受け入れることにしました。
もちろんタダではありません。忠当は、忠重に2万両を渡すかわりに、今後は酒井本家に一切関わらないことを約束させたのです。いわば2万両は手切れ金で、忠重は実質的に追放されたのでした。
これでトラブルメーカーもいなくなり、しっちゃかめっちゃかに引っかき回されていた酒井家は、ようやく平和を取り戻したのでした。