敵の大軍何するものぞと殴り込み、バッタバッタと縦横無尽に暴れ回る……まさに一騎当千、そんな快感が人気の歴史アクションゲーム「戦国無双」シリーズ。皆さんは、プレイしたことありますか?
しかし、こういうゲームは確かに楽しいものの、中にはこんな意見も聞かれます。
「あんなバカでかい武器を振り回せる訳がない。物理的にありえない」
……などなど。大人になると、どうしてもそういう点に目が行きがちで、なかなか純粋に楽しめなくなってしまいますよね(筆者みたいに)。
だがしかし「現実は小説よりも奇なり」とはよく言ったもの。実際に身の丈以上の太刀を振り回し、群がる敵兵をバッタバッタと斬り倒した豪傑も実在していました。
今回はそんな戦国武将の一人、真柄直隆(まがら なおたか)の武勇伝を紹介したいと思います。
朝倉義景の被官として活躍
真柄直隆は天文5年(1536年)、現代の福井県越前市にあたる越前国真柄荘で誕生しました。
越前国は守護大名の朝倉義景(あさくら よしかげ)が統治していたものの、真柄家は完全な支配下ではなく、半ば独立勢力として朝倉家に協力する被官であったと言います。
通称は十郎左衛門(じゅうろうざゑもん)。朝倉家中でも屈指の豪傑として武勇にひいで、黒鹿毛の愛馬と「太郎太刀(たろうだち)」がトレードマークでした。
この太郎太刀は南北朝時代の刀工・千代鶴国安の作で、全長は一丈(約3メートル)、刃渡りだけでも七尺三寸(約2.2メートル)と言われる巨大な代物。
弟の真柄直澄(なおずみ)も全長八尺(約2.4メートル)・刃渡り五尺五寸(約1.6メートル)という次郎太刀(じろうだち。作者は同じか同流派)を振り回す豪傑でした。
ただし直澄はその通称が兄と同じく十郎左衛門であるため、同一人物ではないかとの説も。その場合、次郎太刀は直隆の子・真柄十郎隆基(じゅうろうたかもと)が用いたと言われます。
数々の合戦で武功を立てた直隆ですが、特にその豪傑ぶりを示したのが永禄9年(1566年)9月のこと。
京都で室町将軍・足利義輝(あしかが よしてる)が暗殺され、その弟の足利義昭(よしあき。当時は義秋)が朝倉家へ逃げ込んで来た際、真柄父子は御前で演武を披露しました。
直隆は太郎太刀を軽々と振り回し、隆基は大石を上空へ投げ飛ばしては受け止めを繰り返して剛力をアピール。こんな者たちが側近く仕えるとは、さぞや義昭も頼もしく感じたことでしょう。