現在の教科書は平氏政権について、貴族的な生活が強かったと表記しているものが多いが、それは平清盛(たいらのきよもり)が貴族と同じように朝廷内での力をつけて栄達を目指し、その権威の後ろ盾を天皇家との外戚関係に頼ったからに他なりませんが、清盛のやり方はそこまで貴族的だったのでしょうか。
平氏台頭の萌芽は、清盛の祖父にあたる平正盛の代にはじまります。正盛は「桓武平氏」と呼ばれる軍事貴族の子として生まれました。軍事貴族とは、戦を専門とする下級貴族で、より高い貴族に武力を以てつかえていました。武士の元祖といわれる彼らはまさに「侍者」だったのです。
御所を警備する北面の武士や当時の警察にあたる検非違使として頭角を現した正盛は、武力に頼る白河上皇の治世の時流に乗じて勢力を拡大していきました。正盛の特性は、朝廷の命によって打ち負かした相手を完膚なきまでに打ちのめすのではなく、家人として家来に取り込むことで、強大な軍団を手にしたことにあります。
その子・忠盛も父の路線を継承し、院政を敷く白河上皇の武力的な面での支えとなり、その立場を次の鳥羽上皇の院政期になっても堅持、荘園経営や日宋貿易に積極的に関与することにとって、軍事力だけでなく財力も手にすることができました。
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その勢力は、左大臣・藤原頼長がその日記『台記』いおいて、「数国の吏を経、富百万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ」(数か国の受領を歴任し、膨大な富を築きあげ、つき従う者は国中にあふれ、武人としての力量は抜きんでている)と書き示すほどだったといいます。