国益維持のための聖徳太子の秘策とは?「遣隋使」は隋との交流だけが目的ではなかった

「遣隋使」が行われた理由

聖徳太子が行った有名な政策に「遣隋使(けんずいし)」があります。

今まで、私などは「遣隋使は、当時の倭国が大国である隋から文化などを学ぶために行われたものだ」……という漠然とした認識しか持っていませんでした。もちろん一般的にはこのように理解されていますし間違いではないのですが、これは一面的な解釈です。

「遣隋使」が行われた本当の理由は、実は当時の国際関係をつぶさに追っていかないと分かりません。本稿ではそれを明らかにしたいと思います。

6世紀末期、およそ300年近く分裂状態にあった中国大陸にようやく統一政権が誕生しました。楊氏が興した隋帝国です。

もともと、中国大陸の王朝の皇帝たちは、自分のことを天の命令を受けて全世界を支配する絶対的存在だと考える傾向がありました(今もそうなのでしょうか?)。ジャイアンみたいなもので、「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」といったところでしょうか。

よって、隋の出現によって周辺諸国はザワつきました。特に朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の三国は対応を迫られることになり、緊張が一気に高まります。

さてこの時、倭国(この時、日本という名称はまだありません)の斑鳩宮を「官邸」として国際政策に携わっていたのが、後にいわゆる聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子(うまやどのみこ)です。

2ページ目 厩戸皇子に突き付けられていた課題

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