平清盛といえば、武家の出身でありながら、太政大臣の位まで上り詰め、一族郎党をことごとく官職に就け、「平家にあらずんば人にあらず」とまで身内に言わしめたほどの傑物ですが、彼が頭角を現したのが、清盛38歳の頃の保元の乱と、41歳の頃の平治の乱の2つの争乱。
そんな清盛の異例な出世のスピードなどから、実は清盛は白河法皇の「落胤(らくいん)」だったという説があります。「落胤」とは、身分の高い男が正妻以外の身分の低い女に生ませた子どものことを指します。
白河法皇の権力は当時、賀茂川の氾濫、すごろくのサイ、山法師(比叡山延暦寺の僧兵)以外のことであれば、すべて意のままに動かすことが出来るといわれていたほどの絶対的な権力を持っていました。
仮に、その絶対権力者と清盛が血が繋がっているとなれば、平治の乱以降の清盛の活躍も納得がいきます。