名将の晩節
現在の山形県の、海側の地域は江戸時代は「庄内藩」でした。そこを納めていたのが酒井家で、その初代藩主は酒井忠勝(さかい・ただかつ)という大名です。
この人は徳川家光の右腕と評されるほど優秀な人物だったのですが、その足跡を辿るとだいぶ「晩節を汚した」感があります。
徳川家光からの信頼大!酒井忠勝(さかいただかつ)の知られざる逸話をご紹介
何しろ、ボンクラの弟からもたらされるウソを信じて家臣を追放したり、あるいは死に追いやったりしています。彼によって命を失った者は300人にも及ぶと言われ、またその弟というのが、領地で悪政を敷いて民を飢え死にさせたとんでもない人物でした。
死に追いやられた300人中、忠勝によって直接手討ちにされた家臣は130人。その多くは女中などの女性や、身の回りの世話をする低い身分の人たちでした。
今回取り上げるのは、この忠勝の弟である酒井忠重(さかい・ただしげ)という人物です。この弟がいなければ、晩年の忠勝の蛮行ももう少し少なくて済んだかも知れません。
この、厄病神と言っても差し支えない酒井忠重という人物がもたらした悪質なお家騒動について、前後編に分けて解説します。
酒井兄弟、出羽の地へ降り立つ
酒井家と、酒井忠重の関係について説明するには、そもそも酒井家が山形へやってきたところから説明する必要があります。
酒井家はもともと信州の松代にいましたが、それが山形へやってきたのは1622(元和8)年のことでした。
江戸幕府は、山形城主である最上義俊の領地を「藩内不統一」を理由に没収・分割しています。
そしてこのうち「庄内13万8千石」を兄の酒井忠勝に、そして「白岩8千石」を酒井忠重に統治させたのでした。ちなみにこの時同じく「左沢1万2千石」を与えられた酒井直次も、忠勝の弟です。兄弟であちこちを統治したことになります。
ところが、忠重は白岩の地で悪政を敷きます。百姓に対して米の押し売りや高利貸を行い、百姓の妻を城に召し出させては美醜で選んで留め置き、人馬を不当に徴発したり……。まさに悪行三昧です。
この暴政の結果、白岩では餓死者や身売りに出された者が1,454人にも及びました。
これに耐えかねた領民は、寛永10(1633)年に、「白岩状」「白岩目安」と呼ばれる非法23か条を記した訴状をもって江戸奉行所に直訴します。
しかし、兄の忠勝が幕府にかけ合ったと見られ、一揆を起こした農民側は敗訴し磔刑に処されました。ひどい話です。
ただ、5年後の1638(寛永15)年には忠重は領地を没収され、兄の忠勝がいる庄内藩に預けられました。
なんで5年も経ってから? という疑問が湧きますが、この前年には島原の乱が起きています。領民からの反発を招いた領主には、それなりの措置を取ることになったのでしょう。
ちなみに、忠重が去ったあとの白岩は幕府の直轄領となり、代官・小林十郎左衛門が後釜に据えられています。しかし悪政は相変わらずで、領民はその後も苦しめられました。