「殿中!浅野殿、殿中にござるぞ……っ!」
江戸時代、殿中(でんちゅう。ここでは主君の城内)での抜刀は謀叛にも等しい重罪であり、その罰は浅野内匠頭(あさの たくみのかみ。浅野長矩)の如く切腹が申し付けられました。
主君の側近くで刃傷沙汰に及ぶなど論外ですが、時には情状酌量によって無罪放免とされたこともあったようです。
今回は武士道のバイブルとして知られる『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、とある奉公人のエピソードを紹介したいと思います。
「徳久殿の鰌膾」心ない挑発に……
今は昔、佐賀藩・鍋島家中に徳久(とくひさ)某と言う少し間抜けな変わり者がおり、これがある時間抜けなことに、お客さんに鰌(どじょう)の膾(なます)を出してしまったそうです。
「あの、これは……?」
「膾にござる」
「それは見て判るが……川魚を生で食うたら中毒(あた)りますぞ?」
川魚には寄生虫がいるから、火を通さねば食えぬ事も知らんのか……あきれた客人は帰って人に話したようで、人々は「徳久殿の鰌膾」と笑い者にしたのでした。
(自ら調理して提供したのか、あるいは妻や下人の失態によるものかは分かりませんが、間抜けな変わり者との前提があるため、恐らく本人が調理したのでしょう。この事から、徳久某が独身の下級武士と推測できます)
そんなある日、この徳久某が佐賀城へ出仕した際、先日の件をからかう者がいました。
「よぅ、鰌殿。腹は下しておらぬか?」
「……うるさい」
「胃薬はいらぬか?なぁ、なぁ……」