幕末の外交交渉なら任せろ!幕末三俊のひとり、超有能だった幕臣・岩瀬忠震の生涯

雲川ゆず

幕末から明治時代にかけての社会の混乱期には、多くの人物が活躍しました。

どうしても西郷隆盛や大久保利通など、江戸幕府を倒し新政府を作った側が注目されがちですが、実は徳川家幕臣のなかにも、たくさんの優秀な人材がいました。

そこで、今回の記事では、そんな有能な幕臣のひとりである、岩瀬忠震(いわせただなり)について詳しくご紹介したいと思います。

岩瀬忠震っていったい何者?

岩瀬忠震(いわせただなり)という名前は、彼の活躍に比べるとそれほど知られていないかもしれません。

彼は、江戸時代後期に活躍した江戸幕府の幕臣であり、スゴ腕の外交官でした。外交交渉に尽力したことから、水野忠徳、小栗忠順とともに「幕末三俊」と顕彰もされています。

旗本である設楽貞丈の三男として、江戸芝愛宕下西久保で生まれた彼は、1840年に岩瀬忠正の婿養子となり、岩瀬家の家督を継ぎます。

その後、昌平坂学問所の教授などを務め、1854年には、老中首座であった阿部正弘から目付に命じられ、ロシアのプチャーチンとの交渉を始めとする対外交渉など様々な仕事に従事します。

岩瀬忠震の最大の活躍・日米修好通商条約

優秀かつ有能な岩瀬忠震ですが、彼の一番の活躍は、日米修好通商条約の調印でしょう。

日米修好通商条約というと、“不平等条約”“アメリカの言いなりだ”などとネガティブな印象で語られることが多いですが、当時の状況を考えれば、ベストを尽くした結果と言えるのではないでしょうか。

そもそも、当時は幕臣意外にまともに外国人と交渉できる人物はおらず、なかでも岩瀬は素晴らしい交渉スキルを持っていたため、アメリカ総領事・ハリスとの交渉に臨みました。

ちなみに彼は、交渉相手の外国人からも「最も愛想の良い、教養にあふれた人物」と言われたそうです。

3ページ目 井伊直弼の行った「安政の大獄」で運命が一転

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