「偉人」野口英世!?
時代によって、「偉人」の評価もいろいろ変わってくるのは面白いですね。
例えば今、図書館の子供向けの伝記コーナーに行くと、ひとつ前の世代にとっては見たことも聞いたこともない人が「偉人」として取り上げられていたりします。しかも、その中にはなんと「漫画家」が含まれていたりするのでますますびっくりします。
逆に、子供の頃はすごく偉い人だったと言われている人について、研究が進んだりすることで実はとんでもない奴だったことが判明している、ということも多くあると思います。
例えばジョージ・ワシントンの「桜の枝」のエピソードは作り話だったとか、石川啄木は人間のクズだった、とか。あと、伊藤博文の女好きとか(これは本人も全然隠していませんが)。
で、そんな「後世になって評価がガラリと変わった人」の中でも、石川啄木と並んで有名なのが野口英世でしょう。
私が子供の頃に読んだ伝記では、幼少の頃に大やけどを負ったものの、その苦難に耐えて勉学に励んで研究者になり、感染症の研究に注力しているうちに自らも罹患して命を落とした……という「偉人」として描かれていました。
大枠ではそれで間違いないのですが、もう少しだけミクロな視点で見てみると、野口は違う意味で相当な「大物」だったことが分かります。
猪苗代湖の近くの貧農の家庭に生まれた野口英世は、幼い頃の火傷で左手が不自由でした。この火傷について、実母はずっと罪悪感を抱いていましたが、英世はそんな母にずっと愛情を注ぎ続けています。
昔、子供の頃に読んだ伝記では、この左手を治してもらったことに感動したことが理由で医学の道に進むことを決めた……と書いてあったような気がするのですが、この、英世にとって「左手の火傷」というのは、一種の「道具」でもありました。
彼が難関の医術開業試験に合格したのは本当のことです。ただその合格までの道のりで、不自由な左手で同情を買うことで借金を可能にする「借金の天才」だったという一面もありました。
それによって彼は、裕福でないと通えない高等小学校へと進学し、卒業後も会津若松で書生として病院に住み込むことができたのです。
そして、そこで高山歯科医学院の歯科医である血脇守之助と出会い、これがきっかけとなって上京し、試験への合格を果たしたのでした。