足利義政は「ダメ将軍」?
室町幕府第8代将軍の足利義政(あしかが・よしまさ)はどんな人物かと聞かれたら、歴史好きの人はすかさず「ダメ将軍」と答えるのではないでしょうか。
確かに、足利義政には一般的に悪いイメージしかありません。将軍であるにもかかわらず、応仁の乱という大乱はほったらかしで文芸活動にうつつを抜かした……とされています。
しかし詳しく調べてみると、それはあまりにも一面的な解釈であることが分かります。少し彼の生い立ちと足跡を辿ってみましょう。
足利義政は、9歳で将軍職を継いだ兄・足利義勝(よしかつ)が、その後わずか8ヶ月で病死したことで将軍職を継ぐことになります。
その義政も幼少であったことから、幕府は実質的に有力氏族によって運営される連立政権の体をなすことになります。
成人した義政は、なんとか将軍親政を行おうとしました。しかし、その頃には管領細川氏と侍所長官である山名氏を巻き込んだ勢力争いが勃発しており、そこに有力管領家の斯波氏と畠山氏の家督争いが絡み合って、義政が思うように政治を行える状況ではありませんでした。
義政の意欲を奪ったのは、周囲の大人たちでもありました。彼の母親や、正室の実家である日野氏までもが政治に介入し、若い将軍の存在は飾り物同然になってしまったのです。
特に幕府の体制を牛耳った乳母の今参局(いままいりのつぼね)、養育者の烏丸資任(からすまるすけとう)、側近の有馬持家(ありまもちいえ)の3人などは、名前に「ま」が入っていることから「三魔」と呼ばれたものです。
幕府を舞台にした勢力争いは「応仁の乱」でピークを迎えます。