「心頭滅却すれば火もまた涼し」の由来とは?超有名なアノ戦国武将との関係

美濃国の禅僧・快川紹喜

禅宗の有名な言葉に「心頭滅却すれば火もまた涼し」というのがありますね。これはもともと中国の詩人が詠んだものだそうですが、日本では、ある禅僧がこれを口にしたことで、宗教的な格言として知れ渡っています。

この言葉を口にしたのは、臨済宗は妙心寺派の禅僧・快川紹喜(かいせん・じょうき)です。一体どのような経緯で、あの名言は生まれたのでしょうか。それには、誰でも知っている有名な戦国武将が関わっていました。

もともと快川は美濃国の出身で、最初は妙心寺に住んでいましたが、その後は崇福寺の住職となりました。しかし当時の国主だった斎藤義龍との間で「永禄別伝の乱」と呼ばれる宗教上の混乱があり、一度は美濃を離れるなどしています。

その後、大きな転機が訪れたのは1564(永禄7)年のことでした。かの武田信玄に招かれて恵林寺に入寺し、武田家の相談役を務めたのです。

快川と武田家の関係

さらに快川は、故郷である美濃の斎藤氏と、武田家との間を取り持つ外交にも携わるなどし、信玄から重用されました。信玄は彼の人柄にほれ込み手厚く保護していたようで、快川はこの頃、二千人もの門下生を従えていたといいます。

しかし1573(元亀4)年には、信玄の死に伴い武田勝頼が家督を継ぎます。1576(天正4)年には、快川を大導師として、恵林寺で信玄の葬儀が行われました。

このあたりから快川の運命が大きく変わっていきます。その後、武田家は織田信長の甲州征伐により敗北・滅亡しますが、この時、武田領内が混乱するなかで、快川は武田家の武将の一人・佐々木義弼のほか、三井寺の上福院、足利義昭の家臣の大和淡路守たち一行を恵林寺に匿いました。

これは、武田家に恩義を感じていた快川にとっては当然の行動でした。

しかし、このことが織田信長の怒りを買います。

3ページ目 織田軍による焼き討ちで…

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了