平城京にお別れ!わずらしい寺と親戚にさらば
古代日本の都の移動、いわゆる「遷都」といえば大規模な土木工事が伴う国家的プロジェクトです。それが奈良時代から平安時代にかけては藤原京、平城京、長岡京、平安京と、ごく短いサイクルで行われています。その理由はなんだったのでしょう?
ここでは、遷都事業の中心人物だった桓武天皇の思惑を踏まえながら、その経緯をたどります。
710(和銅3)年に奈良に設置された平城京。ところが桓武天皇には悩みがありました。朝廷の権力を拡大をする上で、奈良仏教の寺院と天武天皇系の皇族・貴族たちがどうしても邪魔だったのです。
有名な道教を筆頭に、当時は奈良仏教系の寺院の僧侶たちが政治に介入しがちでした。また天皇家の一族は、天智天皇系と天武天皇系の系統が仲たがいをしている状態でした。桓武天皇は前者の系統で、対立する後者の皇族・貴族から殺されかねないほど嫌われていました。
もともと天智天皇系の皇室が一世紀ぶりに復活したのは、桓武天皇の父親である光仁天皇が即位したことがきっかけでした。桓武天皇としてはこれを中国の「王朝交代」になぞらえて、いろいろと心機一転したいと考えていました。
そこで遷都です。彼は平城京を捨てて新天地である長岡京へ移り、邪魔な仏教勢力や天武天皇系の嫌な親戚たちと物理的に距離を置くことにしました。
ちなみに、のちに桓武天皇は、最澄が中国から持ち帰った天台宗や、空海の真言宗を保護しています。密教系の仏教を奈良仏教に対抗しうる宗派として捉えたからです。
こうして、約70年間、日本の首都として機能した平城京は幕を閉じます。784(延暦3)年のことでした。