大名なのに切腹ではなく斬首刑!?異例すぎる最期を遂げた江戸時代の大名・松倉勝家の生涯

雲川ゆず

みなさんは、江戸時代の大名・松倉勝家(まつくら かついえ)という人物を知っていますか?

あまりなじみのない名前、かもしれませんが、実は日本史上で有名な「乱」と非常に密接な関係があります。そこで、今回の記事では、そんな松倉勝家について詳しくご紹介します。

松倉勝家ってどんな人?

松倉勝家(まつくら かついえ)は、江戸時代前期に生きた人物です。肥前国島原藩の2代目の藩主です。慶長2年(1597年)に生まれ、寛永8年(1631年)に父の松倉重政が亡くなったことをきっかけに、跡を継いで2代目の藩主となりました。

ちなみに、父の重政は、筒井順慶の家臣・松倉重信の長男でした。そして、重政は本能寺の変の際に、明智光秀が筒井順慶に要請したことに対し、「洞ヶ峠の日和見」を献策したとも言われています。

松倉勝家は、悪政を敷き「島原の乱」を引き起こしました。そして、その責任を問われ、寛永15年(1638年)に斬首刑に処されました。

松倉勝家と島原の乱

父の松倉重政も良い藩主とは言えませんが、彼の跡を継いだ松倉勝家は、検知をやり直し、4万石を10万石と過大評価し、それにより住民に重税を強いました。また、悪天候が続いた年にも、彼は容赦なく税を取り立てたと言います。

また、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日記、及び鍋島勝茂公譜の記述などから、農作物だけでなく、人頭税や住民税なども新設し、あらゆる手段を用いて課税したとも言われています。さらに、年貢を払えない者の妻や子どもを人質に取ったり、水責めにしたりしたとも言われています。

3ページ目 「島原の乱」の始まり、そして乱の後

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