もうカタギに戻れない…殺人を犯した明治時代の美人芸妓・花井お梅の末路【上編】

世の中を見渡すと、悲しい事件が佃煮にするくらいあふれ返っています。

しかしよく見ると悲しいのは被害者ばかりでなく、加害者もまた悲しい過去を持っていることが少なくありません。

もちろん被害者らにしてみれば「だからどうした。それで犯行が正当化される訳でもあるまい」ともっともな一言。

それでもやはり第三者としては、自業自得とは言うものの、犯した罪ゆえにたどる末路の哀れさに、一抹の同情を禁じ得ないことが間々あります。

今回は明治時代の芸妓・花井お梅(はない おうめ)の生涯をたどってみましょう。

花柳界の風雲児に、あたいはなる!

花井お梅は江戸幕末の元治元年(1863年)、下総国佐倉藩(現:千葉県佐倉市)の藩士・専之助(せんのすけ)の娘として生まれました。

武士なら苗字を名乗っていたはずですが、後に語られる事情により、家名を汚さぬよう伏せられたのかも知れません。

本名はムメ(読みは「うめ」)、家庭は貧しかったようで明治3年(1871年)、9歳で花井家へ養女に売られます。

「ムメや、達者でな……」

「父上……」

(もちろん人身売買は憚られますから、謝礼などの形で支払われたのでしょう)

「さぁ、ムメちゃん。行こうか……」

しかし花井家の方でもムメを末永く大切に育てる気などなかったようで、

「これは磨けば光る玉の子じゃから、投資もしっかり回収できるじゃろう」

とか何とか明治10年(1877年)、15歳になったムメは東京柳橋(現:東京都台東区)の花街へ芸妓に出されました。

「さぁ、今まで育ててやった恩返しに、たっぷり稼ぐんだぞ!」

「……はい」

小秀(こひで)の名前でお座敷に上がったムメは、持ち前の美貌と世渡り上手で評判となり、18歳となった明治13年(1880年)、新橋の妓楼に移って秀吉(ひでよし)と改名します。

「もうあたいは一人前だから小の字は要らない。豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)みたいに成り上がって天下を奪ってやるのさ!」

気風のよい姐御肌で人望を集めたムメですが、いかんせん酒癖が悪くてキレやすく、ヒステリックな性格で敬遠されたようです。

近づきたくはないけれど、逆らうと怖いから離れもしない……そんな取り巻きたちに囲まれながら、ムメは花柳界の風雲児たるべく名を馳せたのでした。

3ページ目 → 歌舞伎役者の源之助にフラれ……

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