庶民も将軍も熱狂!江戸時代の相撲で名勝負を繰り広げたスター力士、谷風と小野川

青柳祐馬

7月、久しぶりに名古屋に相撲が戻ってきて、数々の熱戦が繰り広げられました。様々な取り組みの中でも、特に素晴らしい戦いには、自然と心惹かれるものがあります。

そんな国民的スポーツである大相撲…いつの時代も必ずライバル同士の名勝負が展開されます。

このような「熱い戦い」は、今から約200年以上も前の江戸でも、「二代目:谷風梶之助」と「小野川喜三郎」という二人の名力士によって繰り広げられていました。

 

 

谷風梶之助(初土俵1769~引退1794)

仙台出身の谷風の生家は苗字帯刀を許された豪農の家で、7歳の頃には五斗俵を持ち上げてしまうほどの怪力の持ち主でした。その類まれなる潜在能力を生かして、明和5年(1768)18歳の時に力士となり、翌年には初土俵を踏んでいます。デビュー当時の四股名は「伊達関」…これは仙台藩主・伊達家から賜ったものですから、期待の大きさは並々ならぬものがあったことでしょう。

しかし、若手のホープとして、多くの人々の期待を背負った当時の谷風でしたが、藩主と同姓であることを憚って、すぐに「伊達関」の四股名を返上し「達ヶ関」と改名しています。

あくまでも想像の限りになりますが、まだ新人であった谷風にとって、藩主の姓で土俵に上がることに相当なプレッシャーがあったのではと感じます。現に、過度な期待を受けた若手のアスリートがその重圧から潰されてしまうということも少なくありません。

その後、達ヶ関としてキャリアを再スタートさせると、安永5年(1776)に「谷風」へ改名。そして、初土俵からおよそ10年で最高位の大関に昇進しました。

谷風の大きさは推定189cm162kgとされていますから、現代の日本人力士たちと並んでも遜色ないサイズです。プレイスタイルは体格を活かした相撲で連戦連勝を飾ります。

強豪力士として人気を得ると、「寛政三美人・難波屋おきた」とのツーショット浮世絵(作勝川春湖)や落語「佐野山」にも登場するなど、メディア露出も増えてくることになります。

…そして、本業の相撲では破竹の63連勝を飾り、当時の相撲界は、まさに「谷風時代」を迎えることになります。

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