豊臣は滅んでいなかった?秀頼の死後も豊臣の姓を受け継いだ木下利次のエピソード

時は戦国末期の慶長20年(1615年)、かつて栄華を極めた天下人・豊臣秀頼(とよとみ ひでより)が徳川家康(とくがわ いえやす)に攻め滅ぼされ、自害して果てました。

この「大阪夏の陣」によって滅亡したとされる豊臣氏ですが、実はその命脈を後世に受け継ぐ者がいたのです。

今回はそんな木下利次(きのした としつぐ)の生涯をたどってみたいと思います。

豊臣の姓を絶やさぬよう、高台院の養子に

木下利次は慶長12年(1607年)、秀頼の従兄にあたる木下利房(としふさ)の次男として誕生しました。秀頼から見ると従甥(いとこおい)になります。

当時、天下の趨勢は既に豊臣から徳川へと傾きつつあったものの、それを憂うにはまだ幼く、また憂えたところで事態を改善する力もありません。

そんな利次が9歳となった慶長20年(1615年)に秀頼らが攻め滅ぼされると、豊臣の名が絶えてしまうことを嘆いた高台院(こうだいいん。秀頼の亡父・豊臣秀吉の正室)が利次を養子に迎えます。

「かつて卑賎の身から天下人にまで立身出世を果たした(亡き)秀吉が、畏れ多くも朝廷より賜った豊臣の姓を、たった二代で絶やしてしまうのはあまりにも不敬ではないでしょうか」

この言い分にも一理ある……徳川家としても、かつては主君として仕えたこともある豊臣家を完全に根絶やしにしてしまうのは気が引けたのか、また高台院に一目置いていたこともあってか、高台院と利次の養子縁組を承認しました。

これにより、利次は羽柴(はしば)の名字を称して羽柴利次となるのですが、中には「豊臣家の養子になったのに、なぜ羽柴と名乗るの?」と疑問に思われる方もいるでしょう。

豊臣とは朝廷から賜った姓(せい)で、家を現す名字(みょうじ。苗字)とは異なります。

例の秀吉や秀頼にしても、豊臣という姓は主に公式の場でのみ名乗り、普段は羽柴という名字を使っていました(現代では姓と名字はほぼ同じに扱われていることと、立身出世に合わせて呼び名が変わっていく痛快感から、豊臣秀吉という呼びが一般化したのでしょう)。

2ページ目 羽柴の名字と領地を奪われるも……

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