江戸時代後期、欧米列強の動きはアジア全体に及んできました。3代将軍徳川家光の代から始まった鎖国政策をとる日本も例外ではありませんでした。
特にオホーツク海を隔てたロシアは執拗に開国と通商を日本に求めたものの、拒絶する江戸幕府と険悪な状況に陥り、樺太などに武力をもって攻撃を仕掛けてきたのです。
こうした動きに対処するため、幕府は会津藩に北方警護を命じます。会津藩の北方警護とその後について紹介しましょう。
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幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【前編】
派兵に向け、燃え上がる会津士魂
1808(文化5)年元旦、家老内藤信周(のぶちか)に率いられた、総勢1600名を超える会津藩兵が、幼君松平容衆(かたひろ)のが見送る中、若松城を出発しました。
一行は仙台・盛岡・青森を経て津軽半島最北端の三厨(みんまや)に到着。そこから津軽海峡を渡り、松前に至ります。
そこで、各隊は任地ごとに分かれ、船で利尻・宗谷・樺太へと北上しました。最前線の樺太に到着したのは、会津を出て4か月以上が経った4月19日でした。
実は出発前、派遣される各隊の間で大騒動が起こっていたのです。それは、各隊が滞在する、松前・宗谷・利尻・樺太の任地をめぐってのことでした。
藩では、北方警備は臨時的なことであるため、会津藩の軍制である四陣の制(先鋒・左右翼・殿を1年交代で役目を果たす制度)を採用せず、各隊の任地をくじ引きで決めたのです。
松前は、蝦夷唯一の城下町で、幕府の役人や商人たちが多く、賑わいをみせていました。また、宗谷は本陣とされていましたが、樺太の後方支援のための基地でした。藩兵達は、松前や宗谷にいたのでは、最前線で戦うことができず、武士の面目が立たないというものでした。
こうした藩士たちの燃え上がる会津士魂が、任地への不満となり隊士たちは、抗議運動を繰り返していました。藩は、騒ぎが公儀へ聞こえるのを怖れ、くじ引きを廃止し、説得により藩士たちをなだめたのです。