BL(ボーイズラブ、男性同士の恋愛)はここ最近小説やマンガで出てきたと思いがち。しかし、日本の男色(だんしょく)・衆道(しゅうどう)は遥か昔からあったと記録が残っています。
そこで今回は、日本史における男色の歴史を振り返り、特徴などもあわせてご紹介したいと思います!
日本で男性同士の性愛を表す言葉
まず、混乱を避けるために、言葉の整理をしておきたいと思います。日本史上で男性同士の性愛を表す言葉はいくつかありますが、まず「男色(だんしょく・なんしょく)」が一般的な表現となります。
そのうち、武士同士の男色を“若衆道(わかしゅどう)”の略で「衆道(しゅどう)」と呼びました。ちなみに、衆道は基本的に、大名と寵童、武士同士の義兄弟関係など、明確な上下関係があったものを指すといわれています。また、衆道は「若道」(じゃくどう・にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)などの別名もあります。
男色の始まり
『日本書紀』に日本の最初の男色の記録がある、と伝えられていますが、男色が日本に広まったのは仏教が伝来した奈良・平安時代といわれています。男色は寺院で広まったといわれ、僧と稚児という関係でした。
奈良時代以降には男色はかなり仏教界に広まり、稚児の初夜の前に行われる「稚児灌頂(ちごかんじょう)」という儀式によって、僧侶たちが稚児と交わることを正当化させていたともいわれています。
江戸時代以前の男色は決して「快楽のため」だけではない?恒例の儀式や同志の契りを交わす意味も大きかった
男色が公家に広がった平安・鎌倉時代
かの有名な藤原道長の子ども、藤原頼長も、男色関係を彼の日記『台記』にて残しています。
彼の場合、僧と稚児に見られた年齢差があるものではなく、成人同士の関係だったといわれています。
武士の男色が盛んになった室町・戦国時代
中世・室町時代になると、武士たちのあいだでも男色が広まりました。
この時代特に有名な男色関係だったのが、室町幕府第3第将軍・足利義満と、能役者の世阿弥。さらに、戦国時代になると、大名家のなかでも男色が見られ、織田信長と森蘭丸はとても有名な例といわれています。