江戸時代に起きた28年越しの敵討ち。父を殺された4兄弟の復讐物語「亀山の仇討ち」【前編】

一之瀬 陽平

主君や身内を殺害された際、相手に対して復讐を決行する「仇討ち(敵討ち)」は、中世から近世の日本では慣例化していた。中には現代まで語り継がれる有名な仇討ち事件も多く存在する。

今回はそんな仇討ち事件の中でも、28年間という長い年月の末に仇討ちを完遂した兄弟の復讐物語「亀山の仇討ち事件」をご紹介する。

発端

信濃国(現在の長野県付近)小諸藩藩主である青山宗俊の家臣・石井右衛門は、大阪で藩務に従事していた折、友人・赤堀遊閑から養子・源五右衛門の将来を託され面倒を見ていた。

ある時、右衛門は武術に対する考え方の相違から、源五右衛門に腕試しの勝負を挑まれ打ち負かしてしまう。源五右衛門はこの出来事を恨みに思い報復を決意する。

1673年。源五右衛門は右衛門が外出中に自宅へ忍び込み、帰宅時を狙って襲撃。右衛門を殺害し、逃走した。

 

長男・三之丞と次男・彦七の仇討ち旅

右衛門には、18歳になる長男・三之丞、16歳になる次男・彦七、5歳になる三男・源蔵、2歳の末っ子・半蔵と4人の息子があった。長男の三之丞は父の仇討ちを決意し、同年のうちに次男の彦七と共に源五右衛門を追う旅に出る。

逃走した源五右衛門の足取りを追う過程で、養父・遊閑の所在を知った2人は、大津で遊閑を討ち取ることに成功。しかしそこから数年間、肝心の源五右衛門の所在を掴むことは叶わなかった。

2人の死

8年後の1681年。美濃国(現在の岐阜県周辺)に滞在していた三之丞は、仇討ちの相手である源五右衛門に討たれてしまう

次男の彦七は三之丞と別行動をとっていたが、兄の訃報を聞き一人で伊予国へ出向く途中、海で時化に遭遇し死亡。長男と次男は相次いで父親の無念をはらせずに命を落とした。

【後編】へ続く

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