東京湾にぽつんと浮かぶ2つ島。もとは江戸幕府が黒船来航後に建設した7つの海上要塞(通称「品川台場」)で、現在はそのうちの2つが残っている。
急ピッチで建設が進められた台場だが、結局一度も砲台としての役目を果たすことなく、姿を消していった。
江戸を守るための海上要塞 品川台場とは
嘉永6年(1853)、マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の艦船四隻が浦賀沖に来航した。真っ黒く大きなその船には外輪が付き、煙突からはもくもくと煙が上がっていた。
そう言えばペリー提督って「黒船」の後どうなった?幕末の素朴な疑問を紹介
泰平の 眠りを覚ます 上喜撰たつた四盃で 夜も寝られずこれは幕末の嘉永6年(1853年)7月8日、日本の開国を求めて浦賀(現:神奈川県横須賀市)沖にやってきたペリー提督ら東インド艦隊の衝撃を詠…
それ以前に日本に来航したロシアやイギリスの船とは全く違う、今までに見たこともない艦船を当時の日本人は「黒船」と呼んだ。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」と誰かが詠んだように、アメリカの独立記念日に合わせて黒船が発射した一発目の祝砲に江戸は大騒ぎとなった。
幕府は外国船から江戸を守るための海上砲台を沿岸防衛に精通していた伊豆韮山代官の江川英龍に建設させた。
建設には八ツ山や御殿山などの付近の山を切り崩した土砂が利用され、歌川広重の『江戸名所百景 品川御殿やま』には、台場建設のために切り崩された山肌が描かれている。
当初は11基の台場を建設する計画だったが、第一から第六台場と陸続きの御殿山下台場の計7基の台場を完成させて建設工事は終了した(第七台場は未完成)。
現代に換算すると約20億~30億円かけて建設された品川台場だったが、結局一度も使われることなく日本は開国。品川台場はその役目を終えることとなる。