癇癪(かんしゃく)持ちの叔父と甥? 江戸中期、21年の時を経て起こった2つの類似刃傷事件【前編】

一之瀬 陽平

太平の世といわれた江戸年間には、大規模な戦こそ起こらずも藩ごとの小競り合いやトラブルは相次ぎ、結果的に改易となる藩や切腹して果てる大名も存在した。

中でも、江戸時代中期に起きた2つの刃傷事件は、その関連性から後世にも語り継がれる有名な事件となった。今回は、同族出身の武士が起こした2つの事件をご紹介する。

内藤忠勝

1655年。志摩鳥羽藩(現在の三重県)の2代目藩主であった内藤忠政の次男として生まれる。祖父の忠重は徳川家康に仕え、3代将軍・家光の教育係も努めた人物であり、徳川家との縁が強く志摩鳥羽に2万石を賜り初代藩主となった。

忠勝には10歳上に長男の忠次がいたが、1671年に病気によって廃嫡されており、忠勝が嫡子となって家督を継いでいる。1673年。父・忠政の死に伴い家督を相続した。

増上寺刃傷事件

1680年。徳川4代将軍・徳川家綱の77日法要が江戸の増上寺で行われる事になり、忠勝は警備を任ぜられる。

一方、丹後国(現在の京都府)宮津藩の2代藩主であった永井尚長(ながいなおなが)も、幕府の命により奉行として増上寺に赴いていた。

忠勝と尚長は面識があったが普段から相容れなかったようで、立場上、上席にある尚長は忠勝に対し、増上寺警備の席で発言を無視するなどのぞんざいな態度をとったとされる。

尚長の態度に立腹した忠勝は、脇差を抜いて斬りかかり逃げる尚長を捉え刺殺した。

その後

忠勝自身は切腹を命じられ自刃。享年26。鳥羽藩は改易となり、しばらくは幕府直轄地となった。殺害された尚長を藩主とする宮津藩は、殺害された経緯から鳥羽藩同様に改易処分となった。

【後編】では、21年後に忠勝の甥である浅野長矩が起こした松の廊下事件をご紹介する。

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