古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】

高野晃彰

日本史の時代区分の一つである「古墳時代」。大王家や有力豪族を始めとする人々が墳墓として大小さまざまな古墳を造営した時代のことを指します。

しかし、古墳時代の始まる時期は弥生時代末期と重なるため、はっきりした年代が定められていません。そんな古墳時代の始まりのカギを握るのが今回ご紹介する纏向古墳群の6基の古墳

後編では、6基の古墳が全国に与えた影響とそれぞれの古墳についてお話ししましょう。

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古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【前編】

日本史の時代区分の一つである「古墳時代」。大王家や有力豪族を始めとする人々が、墳墓として大小さまざまな古墳を造営した時代のことを指します。しかし、古墳時代の始まる時期は弥生時代末期と重なるため…

全国に見られる纏向型前方後円墳

現在の考古学的な定説になっているのが、3世紀中頃~後半に、最初の前方後円墳として纏向に箸墓(箸中山)古墳が築造され、それがヤマト政権の勢力拡大とともに、全国に広がっていったというものです。

各地の有力な豪族は、ヤマト政権の大王に服従する証として、前方後円墳を築くことを許されたとされます。

しかし、それに遡ること約半世紀前(3世前半~3世後半)に、纏向型前方後円墳が北は福島県から南は鹿児島県に造営されていたのです。

この事実は、ヤマト政権が全国に勢力を拡大する前に、それに先行する纏向にあった政権がほぼヤマト政権同様の地域に勢力を伸ばしていたことになります。

もちろん、纏向型前方後円墳と箸墓(箸中山)型前方後円墳は、同じ纏向遺跡内にあり、纏向の地を起源とすることは疑いようはありません。

そうなると、纏向には全国に影響を及ぼすような大きな力を持った政権が、弥生時代末期(3世紀前半~中頃)・古墳時代前期(3世紀中頃~3世後半)という2つの時代において、継続して存在していたことを物語っていることになるのです。

纏向に存在したこの2つの政権について、確かなことを言えないのが現状です。しかし、もし、纏向に邪馬台国があったのであれば、前者は邪馬台国(卑弥呼・台与王朝)、後者は初代ヤマト政権(崇神王朝)と考えることも可能なのではないでしょうか。

ちなみに、纏向遺跡では、発掘調査のたびに多くの重要な遺構が見つかっていますが、最も注目を集めたのが2009年に発見された4棟の大型建物群でした。

 

この遺構は3世前半~中頃のものと推定されています。この時期に、これだけの規模の建物は全国的に類を見ません。おそらくは、纏向の中心的な施設であったことは間違いなく、卑弥呼の宮殿ではとの説も提唱されています。

纏向型前方後円墳が造営されたと同時期に、この大型建物群も存在していたのです。この建物を利用した人物たちと、纏向型前方後円墳3基の被葬者との関係も興味深いものがあると思いますが、いかがでしょうか。

 

纏向遺跡は、今後も長い時間をかけて発掘調査が行われます。日本古代史の謎を解き明かすような発見があるかもしれません。大いに期待したいものですね。

それでは、纏向古墳群の6基の古墳についてその概要を見ていきましょう。

2ページ目 纏向石塚古墳、纏向矢塚古墳

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