「納豆売り」は仮の姿、その正体は…
日本史では、よく約1万3000年前ごろに始まった縄文時代が歴史の「原点」のように考えられがちです。
実際、日本では戦後までの長い間、縄文時代よりも前の旧石器時代には、日本には人が住んでいなかったと考えられていました。
旧石器時代は、理科でいう地質年代では「更新世」にあたりますが、この更新世の時代の日本は火山活動が盛んで、人類が生活できる環境ではなかったとされていたのです。
その先入観があったためか、長い間、更新世の地層を発掘しようという人はいませんでした(皆無ではなかったけど、学会から批判されまくっていたようです)。
この状況が一変したのは、太平洋戦争が終わった翌年の1946(昭和21)年のことでした。一人のアマチュア考古学者が、更新世の関東ローム層から石器を発見したのです。
このアマチュア考古学者の名は、「相澤忠洋(あいざわただひろ)」。
子供の頃から土器片や石斧などに心をときめかせていた彼は、大人になってからも納豆などの行商をしながら独学で考古学を学び、空いた時間に発掘作業をしていました。
そもそも、彼が納豆の行商をしていた理由というのが「朝晩行商に出て、日中は発掘ができる」からでした。彼は生前、「考古学がやりたいから、納豆の行商をしているのだ。サラリーマンでは、時間に拘束され遺跡の踏査が自由に出来ない。目的の手段として行商をしている」と言っていたそうです。
彼が、日本史の常識を覆すことになる石片を見つけたのは、群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)の小さな丘陵地帯の赤土の中からでした。
ただしこれは旧石器と断定はできず、相澤は発掘を独自に続けていきます。
そして1949(昭和24)年の夏、彼は槍の先につけて使われていたと思われる「槍先形石器」をついに発見しました。これは黒曜石でできた、完全な形をしたものでした。
相澤のこの発見が、かの有名な「岩宿遺跡」の始まりでした。のちに本格的な調査が始まると、いわゆる「打製石器」がいくつも出土しました。古いものでは約3万5000年前のものも含まれており、日本には縄文時代より古い「旧石器時代」が存在することが分かったのです。
アマチュア考古学者の情熱が、日本の古代を縄文時代よりもさらに2万年以上も「増やした」のでした。