下剋上の嵐が吹き荒れ、血で血を洗う死闘が繰り広げられた戦国時代。中には生き残るため、あっちを裏切り、こっちに従い……と叛服(はんぷく)常無き者もいましたが、やはり裏切りは武士道に悖(もと)る行為として忌避されていました。
今回は近江国(現:滋賀県)の戦国大名・浅井(あざい)氏に仕えた浅井井規(あざい いのり。以下、井規)のエピソードを紹介したいと思います。
主君・浅井長政の「またいとこ」浅井井規
浅井井規は生年不詳、浅井氏の一門衆で今浜菅浦(現:長浜市)の代官を務めた浅井井伴(いとも)の子として誕生しました。主君・浅井長政(ながまさ)とは再従兄弟(またいとこ、はとこ)の関係になります。
祖父・浅井井演(いひろ)は永禄4年(1561年)に築かれた横山城(現:長浜市)の城代を任されており、主君より篤く信頼されていたことが察せられます。
元亀元年(1570年)ごろには長男の浅井井頼(いより。喜八郎)も生まれ、いよいよ奉公にも熱が入ろうというところへ、にわかに暗雲が立ち込めてきたのでした。
尾張国(現:愛知県西部)の小大名と思っていたら、いつしか美濃国(現:岐阜県南部)をも併呑して瞬く間に勢力を伸ばしてきた織田信長(おだ のぶなが)との激突が不可避となったのです。
木下秀吉の調略により、次々と寝返る仲間たち
「もはや浅井は落ち目、今の内に織田方へ与(くみ)しようぞ!」
いつの世にも機を見るに敏な手合いはいるもので、信長の部将である木下秀吉(きのした ひでよし。後の豊臣秀吉)の調略によって、仲間が次々と織田に寝返っていきます。
「おのれ……七郎(井規の通称)よ、織田に寝返った鎌刃城(現:滋賀県米原市)の堀石見(ほり いわみ。秀村)を討て!」
「ははあ……っ!」
元亀2年(1571年)、鎌刃城を攻め立てた井規でしたが、あと一歩というところで木下秀吉の援軍が駆けつけ、形勢逆転されてしまいました。
「馬鹿な……木下は横山城で釘づけだったはず……!」
横山城を守っていた大野木秀俊(おおのぎ ひでとし)らは秀吉の調略によって降伏。浅井氏の本拠地・小谷城(長浜市)へ落ち延びたフリをして、実は秀吉と内通するスパイとなったのです(井規がそれを知るのは、後のことです)。
「多勢に無勢……者ども、退け!退けぇ……っ!」
這々(ほうほう)のていで小谷城へ逃げ帰った井規ですが、彼にもまた秀吉の調略が迫っていたのでした……。