すべては御家のため…戦国時代、骨肉の争いを繰り広げた香宗我部 兄弟のエピソード

戦国時代、守護代・細川(ほそかわ)氏の衰退によって台頭し、土佐国(現:高知県)に割拠していた土佐七雄(とさしちゆう。七氏の有力豪族)。

安芸(あき。安芸郡)氏、大平(おおひら。高岡郡)氏、吉良(きら。吾川郡)氏、香宗我部(こうそかべ。香美郡4,000貫)氏、長宗我部(ちょうそかべ。長岡郡)氏、津野(つの。高岡郡)氏、本山(もとやま。長岡郡)氏の七氏(※)が土佐国の覇権を競っていましたが、最終的に長宗我部氏がライバルたちを制し、土佐国を統一したことは広く知られる通りです。

(※)香宗我部氏を山田(やまだ。香美郡)氏にかえて数える説もあります。

次々と長宗我部氏の膝下に屈していった豪族たちですが、今回はその一つ・香宗我部氏のエピソードを紹介したいと思います。

平安時代から続く甲斐源氏の名族

香宗我部氏は甲斐(現:山梨県)源氏の流れを汲み、平安時代末期に現地へやってきた名族でした。

当時の当主であった香宗我部親秀(ちかひで。右衛門尉)は、なおも勢力を伸ばすべく奮闘していましたが、大永6年(1526年)に安芸氏を攻めた時に大敗、嫡男の香宗我部秀義(ひでよし)を討死させてしまいます。

「やむを得まい……孫十郎(まごじゅうろう)よ、そなたを養子に迎えよう」

一人息子を喪った親秀は、年齢の離れた(※)弟・香宗我部孫十郎秀通(ひでみち。17歳)に家督を継がせて隠居。秀通を補佐しながら、新体制で御家の立て直しを図りました。

(※)親秀の生年=年齢は不明ですが、この時点で「もう子供は期待できない」年齢であったから、弟の孫十郎を養子に迎えたものと考えられます。

その甲斐あってか香宗我部家は乱世を生き延び、天文13年(1544年)には秀通に嫡男の権之助(ごんのすけ。元服して秀長⇒泰吉)、続いて新助(しんすけ。元服して秀政)を授かり、これでひとまず御家も安泰かと思われましたが……。

2ページ目 長宗我部家からの婿養子を巡り、骨肉の争い

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