まさに蘭学の化け物!江戸時代、前野良沢が『解体新書』に名前を載せなかった理由とは

よく「仕事の仕上がりには人柄が出る」と言われますが、皆さんはどうでしょうか?

とりあえず納期を優先して、何か不具合があれば後から修正すればいいや……というタイプがいる一方、納期は少しでも延ばして、ギリギリまで納得できるクオリティを目指すタイプもいると思います。

納期とクオリティの折り合いについては皆さん悩むところで、自分ひとりであればともかく、仲間との共同作業では互いに譲れず、喧嘩別れしてしまうこともあるでしょう。

そんなトラブルは今も昔も変わらなかったようで、今回は江戸時代の蘭学医・前野良沢(まえの りょうたく)のエピソードを紹介したいと思います。

西洋の医術書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に挑む

前野良沢は江戸時代中期の享保8年(1723年)、福岡藩士・源新介(みなもとの しんすけ)の子として誕生します(※良沢は通称ですが、便宜上「良沢」で統一)。

幼くして両親を亡くしてしまったため、母方の大叔父である淀藩医の宮田全沢(みやた ぜんたく)に養われました。

この全沢は医学書『医学知津』を著わすなど非常に優秀だったそうですが、たいそう変わり者で、彼との関係が良沢の性格に大きく影響したと見られています。

「流行りものに飛びつくのは、他人に任せておけばよろしい。それよりは放っておくと廃れてしまいそうなものにこそ目を向けて、後世に伝えることを心がけよ」

要領よく時流に乗って人気を取り、立身出世を目指す賢(さか)しらな生き方よりも、誰も顧みないものの真価を見極められる人になれ……いかにも生きにくそうな偏屈さですが、そういう不器用な人間はいつの時代もいるものです。

さて、元服した良沢は熹(よみす。字は子悦)と改名し、寛延元年(1748年)に大叔母(全沢の妻)の実家である前野家に養子入りし、中津藩(現:大分県中津市)の藩医となりました。

「長崎に行って、オランダの先進医術を学びとうございます!」

明和6年(1769)に藩主の参勤交代で江戸から中津へ下向した良沢は、長崎に留学して西洋の医術書『ターヘル・アナトミア』を持ち帰り、医学者仲間の杉田玄白(すぎた げんぱく)、中川淳庵(なかがわ じゅんあん)、桂川甫周(かつらがわ ほしゅう)らと翻訳を始めるのですが……。

オランダ語をオランダ語で…暗中模索の3年半

「皆、目、判らーんッ!」

すべてオランダ語で書かれた『ターヘル・アナトミア』の翻訳は困難を極めました。

挿絵に書き添えてある単語ならその名称であろうと推測でき、そこから前後関係などつなげていくなどしましたが、人間の生死に影響を及ぼしかねない医学に関わることですから、確実に翻訳しなければなりません。

途中で仲間が辞書を手に入れてくれたものの、この時代に「蘭和(オランダ語⇒日本語)辞書」など存在せず、オランダ語についてオランダ語で紹介する「蘭蘭(らんらん)辞書」。楽しそうとか言っている場合ではありません。

「オランダ語について知りたいのに、オランダ語で説明されても判るかーッ!」

これを翻訳すれば、日本の医術は大きく飛躍できるはず……そう思って始めたものの、すっかり暗礁に乗り上げてしまいましたが、良沢は諦めませんでした。

「いや、国が異なり言葉が違えど、同じ人間である以上、理解できないはずはない。まして身体のつくりは同じだろうから、日本の医学や実際の人体を見直すことで、突破口が見えるはずだ!」

そこで処刑された罪人の腑分(ふわけ。解剖)を見学するなどして、観念的にしか把握していなかった人体の構造を理解するにつれて、『ターヘル・アナトミア』の記述に血が通ってくるのが感じられます。

「言葉は必ず何かを説明しているものだ。その対象を見れば、言葉もおのずと理解できるようになる」

かくして約3年半の歳月を経て、ついに『ターヘル・アナトミア』の翻訳が完了。これをまとめ直したものこそ、現代でも名高い『解体新書(かいたいしんしょ)』です。しかし、その中に良沢の名前は載っていません。なぜでしょうか。

2ページ目 『解体新書』に我が名を載せるな!譲れなかった良沢のこだわり

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