安土桃山時代の礎を築いた織田信長(おだのぶなが)。名のある戦国大名が群居する中で、天下統一を目指せた強大な軍団をいかにして築いたのか。
その理由は、信長の持つ卓越した先見性と情報収集力にありました。後編は、信長が実践した情報収集力から、その強さを探っていきましょう。
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なぜ織田信長は強大な軍団を築けたのか?その理由は卓越した先見性と情報収集力にあった【前編】
信長がこだわった情報収集
戦国大名は、現代で例えるなら経営者のようなもの。自領の繫栄と衰退は全て戦国大名の手腕にかかっていました。経営者にとって、昔も今も的確な情報収集はとても大切です。
情報というものは、単に集めて終りというわけではありません。それをいかに解釈して、利用するかが真の情報力といえます。
電話やネットを駆使することができる現在と異なり、戦国時代は情報収集手段が限られていました。情報を収集するのは、人の力に頼っていたのです。
信長は、情報収集力に長けた戦国大名でした。では、信長はどのように情報収集を行ったのでしょうか。
側室吉乃の実家・武家商人の生駒氏を利用
現在の江南市にあった小折城を居城としていた生駒氏は、灰や油、馬借を商う武家商人でした。
当時の貴重品である灰や油は、莫大な利益を生み出します。そして、馬借は今でいう運送業者で、依頼された荷物を馬に乗せ、全国に届けました。
信長は、尾張統一を成し遂げると、頻繁に小折城を訪れ、当主の娘である吉乃と結ばれます。信長と吉乃の間には、後に織田家の家督を継ぐことになる信忠と織田家の名跡を残す信雄が誕生しました。
信長が小折城を訪れたのは、吉乃との逢瀬のほかに重要な理由があったのです。当時、小折城にはたくさんの商人が出入りしていました。商人は、商いのために日本全国を回り、様々な情報に精通していました。また、馬借を商いとしていた生駒氏のもとには、彼らからもたらされた情報が蓄積されていたのです。
信長は、小折城を自らの情報センターとして、諸国から集まる貴重な情報を分析して、来るべき戦いの作戦を練っていたのでしょう。
また、教科書などで信長の功績として記される「楽市楽座」も、商人が集まる市を情報収集の場として大いに利用したのです。