安土桃山時代の礎を築いた織田信長(おだのぶなが)。名のある戦国大名が群居する中で、天下統一を目指せた強大な軍団をいかにして築いたのか。
その理由は、信長の持つ卓越した先見性と情報収集力にありました。前編では、信長の先見性に焦点をあて、その強さを探っていきましょう。
いち早く着手した兵農分離
織田信長の先見性を語る時、外せないのが「兵農分離」政策を行ったことです。戦国時代は、武士は主君の本城がある城下町に屋敷を持つとともに、領地にも城や館を構えていました。そこでは、家臣や農民が耕作を行っており、いざ出陣となると農民を兵隊として徴用していたのです。
戦国時代、戦闘に参加したのは武士だけではありません。割合からすれば、3割が武士で、7割が農民(農兵)でした。戦国大名にとって一番大切なものは、財力です。財力がなければ兵隊を養えませんし、武器も買えません。従って、領地からとれる農作物、とりわけ米は大切な収入源であったのです。
したがって、田植え(4月頃)と稲刈り(10月頃)の時期には戦争はできません。1年を通じての継続した戦争は不可能でした。他国へ遠征中に田植えと稲刈りの時期になってしまったら苦労して得た戦果を放棄し、いったん自領へ帰らなくてはならなかったのです。
ですから、多くの戦国大名たちは、農閑期を中心に合戦を行っていました。
しかし、信長は、農民の次男三男を農地から引き離し、清州などの城下に移住させ、給金を払い職業軍人化しました。そして、兵力を城下に集中させたことで命令系統がスムーズになり、軍団としての機動性が大幅に高まったのです。
兵農分離を行い、常備軍団を保有したためいつでも戦え、遠征も容易に行えるようになりました。もちろん、兵農分離には、職業軍人に支払うための財力が必要でした。その財力を賄うため、信長は商業を重視する政策をすすめたのです。