戦国時代「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄(たけだ しんげん)公に仕え、数々の勝利に貢献した名軍師・山本勘助(やまもと かんすけ。晴幸)。
その卓越した軍才をもって若い頃から活躍したイメージを持たれがちですが、どちらかと言えば大器晩成タイプだったようで、その前半生は謎に包まれています。
※若い頃は武者修行の旅に出て全国各地を回り、様々な武勇伝を残したとも言われますが、その多くは裏づけに乏しく、恐らく勘助が有名になってから後づけされたものと考えられます。
記録に乏しいということは、特筆するような活躍も見られず、よほどの富裕層でなければ苦労を強いられたことでしょう。
今回はそんな勘助が若き日に味わった苦労の一つとして、理不尽きわまるエピソードを紹介したいと思います。
家老・大林貞次の養子となるも……?
勘助(幼名:源助)は明応2年(1493年。諸説あり)、駿河国富士郡山本村(現:静岡県富士宮市山本)の土豪・山本図書貞幸(ずしょ さだゆき)の四男として生まれました。
※他に、三河国宝飯郡牛窪(現:愛知県豊川市牛久保)などの生まれとする説もあります。
家督の継承順位が低い次男坊以下は、どこか男子のない家へ養子に出されるのが通例でしたが、勘助は片目が見えず、また片脚が不自由で手の指も揃っていないというハンディキャップを背負っており、なかなか受け入れ先が見つかりません。
※勘助の身体障害については、生まれつきとする説や、あるいは激しい武者修行の結果とする説などがあり、ここでは生まれつき説を採用しています。
「そう言えば、勘左衛門(かんざゑもん)殿には男子がいなかったはず……」
勘左衛門とは三河国牛窪城で家老を務めていた大林貞次(おおばやし さだつぐ)。名前の「貞」から察せられる通り、遠縁の親戚に当たるようです(※こういう「一族の証」的な文字を、通字と言います)。
「う~ん……(こんな障害者に家督を継がせたくはないが、さりとてこのままでは家が絶えてしまう。背に腹は代えられないか)……」
かくして貞次は渋々源助を養子に迎え、勘左衛門から一文字をとって勘助と改名しました。
「ありがたき仕合せにございまする!」
「よいかげ源s……もとい勘助よ。これからは勘左衛門殿の名に恥じぬよう、よりいっそう精進するのじゃぞ」
「ははあ。この勘助、粉骨砕身いたしまする……っ!」
(……ふん。元から砕け散ったような身体をしおってからに……)
貞次の内心はともかく、このまま上手く行けば牛窪城の家老職を受け継ぐことも夢ではありません。いよいよ勘助の前途が開けようとしていました。