最強の戦国大名として安土桃山時代を創出した織田信長。中規模程度の領地を大幅に拡大し、天下布武に邁進した原動力はどこにあったのでしょうか?
その答えを、能力主義に基づいた人材登用の面から探ってみました。
父から引き継いだ領地を20倍に拡大できた理由
20万石の領地を800万石に拡大
1534(天文3)年、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれた織田信長。
その17年後、信秀が病没。信長は嫡男としてその遺領を引き継ぐことになります。その石高は、尾張半国の約20万石といわれています。
ご存知の通り、信長は1582(天正10)年、天下統一を目の前にして、明智光秀の奇襲を受け本能寺に斃れます。
驚くべきは、その時の所領で、直轄地と重臣たちが支配する石高を合わせると800万石に及んだといわれています。
領地拡大は信長を支えた家臣団の功績
単純に計算しますと、30年で元の所領を40倍に増やしたことになるのです。
信長の好敵手であり、優れた戦国大名とされる武田信玄でも6倍(20万石→120万石)、上杉謙信でも10倍(10万石→100万石)が精一杯であったとされています。
信長が、20万石という戦国大名としては中規模程度の領地をどのようにして800万石まで増やせたのか。そこには、信長自身の才能とともに、信長を支えた家臣団の存在が大きかったのです。