徳川幕府安泰のため、大阪の陣で豊臣秀頼を滅ぼした徳川家康。
次に狙いを定めたのが、京都にある秀吉の墓と秀吉を祀る豊国神社を破壊し、人々の記憶から秀吉を消し去ることでした。
ここまでのいきさつは、【前篇】もぜひご覧ください。
豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【前篇】
今川・織田・豊臣に臣従するという試練を乗り越えて、江戸幕府を開府した徳川家康。しかし、そこには先の天下人・豊臣家の脅威がありました。家康は、豊臣家を滅ぼすとともに、秀吉の墓と神社を破壊し、京都…
秀吉から「豊臣乃大明神」の神号が剥奪される
徳川家康は、1614(慶長19)年の大阪の陣で豊臣秀頼を滅ぼしました。しかし、家康の豊臣家に対する仕打ちはそれだけにとどまりませんでした。
家康が次に狙いを定めたのが、京都における豊臣秀吉の痕跡を一切消し去ることだったのです。
それが、秀吉を祀る豊国神社とその墓である豊国廟の廃止でした。
1615(元和元)年、家康の意向により、勅許を得て「豊臣乃大明神」の神号が剥奪されます。ここにおいて、秀吉は神ではなくなり、その霊は方広寺大仏殿裏側に建てられた五輪塔に遷されました。
秀吉の遺体そのものは、阿弥陀ヶ嶽山頂の豊国廟に残されたまま放置されたのです。