裏切りと身内殺しの策略家。戦国三大悪人の一人「宇喜多直家」の悪しき所業【後編】

一之瀬 陽平

度重なる裏切りと調略によって備前国(現在の岡山県)一体の支配に成功した戦国武将「宇喜多直家(うきたなおいえ)」。【後編】では、その晩年と行ってきた数々の所業の信憑性に迫りたい。

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宇喜多家による支配権の確立

1575年。主君であった浦上宗景を天神山城から追放することに成功した直家だったが、宗景自身は健在であり、備前国内部には依然として浦上氏を指示する勢力も存在していたため小競り合いが続いた。

その後、3年余りにも及んだ各所で続く武装蜂起を鎮圧、宗景の後ろ盾となっていた勢力の駆逐に成功した直家は、備前国を浦上氏から奪い宇喜多氏の支配権基盤を確立することに成功する。

信長への臣従と死

1579年。中国地方平定を目論む織田信長の命により、羽柴秀吉が備前国に侵攻してくるとこれに対抗。得意の調略術を用いて美作国(現在の岡山県)の武将を破るが、情勢不利とみて信長に臣従。毛利氏との戦に各地を転戦するも1581年に岡山城で死去。病死であったとされる。

息子の「宇喜多秀家(うきたひでいえ)」は秀吉に重宝され、豊臣政権下で備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領する大名となり、五大老に上り詰めた。

2ページ目 直家の人物像

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