戦国一のヤンデレと言っても過言ではない細川忠興(ほそかわ-ただおき)。忠興に関するエピソードは妻のガラシャとのやりとりが非常に有名だと思います。
嫉妬・束縛・幽閉…。戦国一のヤンデレ夫、細川忠興の愛が重すぎて重すぎて。
それ以外にも忠興の性格や性質を表すエピソードがありますので、今回は忠興にまつわるエピソードをご紹介します。
鼻の傷のことは聞いちゃダメ、ゼッタイ!
忠興は家臣から「天下一気が短い」と評されていました。またその性格で一生残る傷も負ってしまいました。
それは天正10年(1582)の山崎の戦い後のこと。南丹後を所有していた忠興は明智光秀に味方した北丹後を所有していた一色義定(いっしき-よしさだ)を、騙し討ちすると一色氏の家臣たちもことごとく討ち取り、丹後国統一を果たしました。
勝利に浮かれていたのは束の間、忠興は自身の妹で義定の正室伊也を保護した時に伊也が所持していた懐剣で鼻を一文字に切られてしまいます。
忠興は信長から感状を貰うくらい活躍した初陣で負った額の傷を名誉としていましたが、この鼻の不名誉の傷をとても気にし、以来傷のことを誰も口にしなくなりました。
気に入らないことがあれば身内でも容赦なし【父親編】
忠興の短気さは敵だけではなく家族にも向けられました。慶長5年(1600)、忠興が上杉征伐のため丹後国にある居城田辺城を後にすると、好機とばかりに西軍に城を包囲されてしまいます(田辺城の戦い)。
忠興不在の中、少数で城を守っていた父の細川幽斎(ほそかわ-ゆうさい)は武士でありながら秘伝とされる古今伝授を継承された随一の文化人でもありました。
幽斎の死によって古今伝授が断絶してしまうことを恐れた天皇は、勅命を出し西軍に田辺城を明け渡したことで戦いに終止符がうたれます。
しかし、忠興は城を枕に討ち死にすることなく、城を開け渡したことに不服だったのか田辺城の戦い以降、幽斎と不仲となりました。
勅命だろうが何だろうが忠興の居城を明け渡したという事実が、幽斎と不仲となった要因と考えられます。
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