政略結婚にも愛はあった。武田家滅亡に殉じた悲劇のヒロイン・北条夫人【上】

昔から結婚は「家同士のつながり」と言われますが、戦国時代はその意味合いがより強く、両家の存亡を賭けた政略結婚が当たり前でした。

しかし、だからと言って愛情など全くなかったかと言えばそんな事もなく、古来「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」と言う通り、いざ一緒となってみれば、よい夫婦として終生を共にする例も少なくありません。

そこで今回は、武田家に嫁ぎ、その滅亡に殉じた悲劇のヒロイン「北条(ほうじょう)夫人」の生涯を辿ってみたいと思います。

長篠の合戦に敗れ、斜陽の武田家に嫁ぐ

北条夫人は永禄七1564年、相模国(現:神奈川県)から坂東一円に勢力を広げていた北条氏康(ほうじょう うじやす)の六女として誕生。本名は不明、母親は松田(まつだ)殿と言われます。

彼女が甲斐国(現:山梨県)の戦国大名・武田勝頼(たけだ かつより)に嫁いだのは天正五1577年1月22日、それまで争ったり同盟したりを繰り返していた北条・武田両家の仲立ちとなりました。

少し時を遡りますが、勝頼は元亀四1573年に亡くなった偉大なる父・武田信玄(しんげん)公の覇業を継いだものの、家老たちとの間に確執を抱えており、何とか認められようと必死でした。

八面六臂の大活躍で領土を武田家史上最大にまで広げ、こと父でさえ落とせなかった高天神城(現:静岡県掛川市)を攻略するに至って「ついに父を超えた」と有頂天になります。

しかし、家老たちは「いや、そういうことじゃないんだ。信玄公が亡くなってまだ新体制が整っていない内からそんなイケイケだと、いつか足元をすくわれるから自重しろ」と諫めるばかりで、一向に勝頼を評価してくれません。

面白くない勝頼は、信玄公以来の家老よりも、自分の取り巻きばかりを重用するようになり、いっそう確執を深めていきました。

2ページ目 そんな中で勃発した長篠の合戦

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