黒船来航により、日本は幕末を迎えます。海外からは最新式の銃や大砲が流入し、日本刀は戦闘の主流から外れていきました。そのような世で、会津藩の刀工・十一代和泉守兼定は、どのような生涯を辿り、刀剣史にどんな影響を与えたのでしょうか。
兼定の残した足跡を見ていきましょう。
会津藩お抱えの刀鍛冶
古川清右衛門(ふるかわ きよえもん。後の和泉守兼定)は、天保8(1837)年に会津若松で生まれました。会津藩が代々抱える刀鍛冶「会津兼定」の一族です。
会津兼定の一派は、弘治2(1556)年に会津に土着し、蘆名家に刀鍛冶として仕えています。その後、会津を領有した蒲生、上杉、加藤、保科家(会津松平家)に仕えて作刀を続けてきました。
清右衛門は、嘉永7(1854)年頃には父親の代作を務め、安政7(1860)年には「兼元」銘の作刀が確認されています。数えで18~24歳の頃には、刀工として既に一定の水準に達していたことが窺えます。
文久3(1863)年、会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)は京都守護職に任命され、上洛を果たします。清右衛門も藩の一員として京都に随行。この時に受領名の「和泉守」を名乗り、銘を「兼定」に変えました。和泉守兼定はこうして誕生しました。
京都滞在の中で、清右衛門は新選組のためにも作刀品を卸しています。新選組副長・土方歳三(ひじかた としぞう)は、和泉守兼定を佩刀としました。土方は余程気に入ったのか、数振りの兼定を所持していたようです。うち一振りは、土方が戦死する直前に親類に送られています。