戦国時代と言えば下剋上の嵐が吹き荒れ、実力しだいで立身出世も夢ではなかったイメージですが、活躍したのは元から武士身分だった者が多く、天下統一を果たした豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)のように、百姓など低い身分から成り上がった者はごく少数派でした。
だからこそ特筆されたのですが、今回は百姓身分から一国の大名にまで立身出世を遂げた田中吉政(たなか よしまさ)の生涯を追ってみたいと思います。
謎多き出自と青春時代
田中吉政は天文十七1548年、近江国浅井郡宮部村(現:滋賀県長浜市)の百姓家に生まれたと言われています。
父親は田中重政(しげまさ)、母親は竹(たけ)と言われており、百姓にしては立派な父親の名前は、恐らく吉政が家柄に箔をつけようと後から称させたものかも知れません。
恐らくは吉政本人が名乗っていた久兵衛(きゅうべゑ)という名前を代々受け継いできたか、あるいは似たような名前だったものと考えられます。
弟に田中清政(きよまさ。左馬允、後に赤司城主)、田中氏次(うじつぐ。兵庫助、後に江浦城主)がいますが、こちらも出世した後の名前で、幼名については不明です。
とかく前半生については史料が乏しく、謎が多い久兵衛ですが、叔父(母の弟)である国友与左衛門(くにとも よざゑもん)のツテで宮部村の領主・宮部継潤(みやべ けいじゅん)に仕え、元服して田中宗政(むねまさ)と称しました。
詳しい年代は不明ですが、当時の元服は数えで15歳(満14歳)前後が多いため、久兵衛の元服≒仕官は永禄五1562年ごろと考えられます。
さて、コネによって7石2人扶持(米約1,050kgの年収&家来1名)の待遇で迎えられた久兵衛は、出自の卑しさを隠すため、かつては武士の家柄であったと称しました。
曰く「自分は鎌倉幕府の御家人・高島高信(たかしま たかのぶ)の末裔で、近江国高島郡田中村(現:滋賀県高島市)を治める田中城々主の家柄であったが、祖先は戦乱によって城を失い、百姓となった」とのことですが、実際のところは不明です。
しかし才覚については確かだったようで、将来を見込まれた久兵衛は宮部継潤の養女を正室に迎えて婿養子となりました。彼女は叔父・与左衛門の娘でしたから、久兵衛にとっては従妹に当たり、よりいっそう絆を強めて奉公に励んだことでしょう。