源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【七】

前回のあらすじ

時は平安末期の治承四1180年、源頼朝(みなもとの よりとも)と共に平家討伐の兵を挙げた北条義時(ほうじょう よしとき)は、苦境を乗り越えて勢力を築き上げ、富士川の合戦では平維盛(たいらの これもり)率いる軍勢の撃退に成功します。

勝利の勢いで一気に京都へ進撃したかった頼朝に対して、朝廷と距離をおいた武士の別天地を夢見る御家人たちは「坂東の勢力基盤を固めるべき」と鎌倉への帰還を促します。

その意見に従った頼朝の決定が、後に「武士の世」を築く上で重要なターニングポイントとなるのでした。

前回の記事

源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【六】

前回のあらすじ時は平安末期の治承四1180年、20年の雌伏を経て平家討伐の兵を挙げた源頼朝(みなもとの よりとも)でしたが、石橋山の合戦で惨敗。御家人たちと散り散りになって、命からがら脱出します。…

鎌倉に凱旋した頼朝、宿敵・大庭景親を処刑

さて、晴れて鎌倉に凱旋した義時たち一行の前に、かつて石橋山の合戦(8月23日)でさんざんに頼朝を苦しめた強敵・大庭平三郎景親(おおば へいざぶろう かげちか)の姿がありました。

石橋山で頼朝たちを取り逃がした後、あれよあれよと言う間に膨れ上がった大軍になすすべなく、山岳部に立て籠もったものの10月23日、ついに頼朝の軍門へ降ったのです。

「その節は我ら一同、誠に世話になったのぅ……」

死地を彷徨ったあの敗北からちょうど2か月、両雄の立場は見事に逆転していました。頼朝は御家人の一人で、景親の兄である懐島平太郎景義(ふところじま へいたろう かげよし)に問いかけます。

「おい、懐島の。お前ェの弟、助けてやろうか……?」

たとえ腹違いとは言え、弟は弟。助けて欲しくない訳はありません……が、ここで「敵」に情けをかける様子を見せれば、今後自分や一族の立場が危うくなりかねません。

「……佐殿にお任せ致しまする」

殺すなとは言えないが、殺せとは言いたくない。こうなったら、頼朝に判断を任せるよりありませんでした。そんな心情を察した頼朝は、景義に命じます。

「そうか……ならばそなたが斬れ

せめてもの情けなのか、あるいはとんだ悪趣味か……頼朝の下知に、一同は騒然としました。処刑するのは当然としても、何も兄に斬らせることはなかろうに……。

「佐殿。兄は脚が悪く太刀筋が覚束ず、討ち損じるおそれがございますゆえ、ここはそれがしが……」

名乗り出たのは景義と景親の弟である豊田平次郎景俊(とよだ へいじろうかげとし)。景義は保元の乱(保元元1156年)で敵将・源為朝(みなもとの ためとも)に膝を矢で射られ、騎馬はもちろん歩行もままならぬ状態です。

※保元の乱における景義と景親の武勇伝はこちら。

決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【上】

古今東西、戦傷(いくさきず)と言うものは何かと話のタネにされたもので、子供のころは銭湯などでご老人が頼みもしないのに腹やら肩やら、爆弾やら鉄砲の傷痕を見せてきては「これは満州で……」「これは南方で………

決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【中】

前回のあらすじ時は平安末期、「保元の乱」に出陣した大庭平太景義(おおばの へいだかげよし)と、その弟の三郎景親(さぶろうかげちか)。敵の猛将・鎮西八郎こと源為朝(みなもとの ためとも)が立…

決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【下】

これまでのあらすじ時は平安末期、「保元の乱」に出陣した大庭平太景義(おおばの へいだかげよし)と、その弟の三郎景親(さぶろうかげちか)。兄・平太は敵の大将・鎮西八郎こと源為朝(みなもとの …

「……我が命じた通りにせよ」

命令に対して、余計な解釈や代替案など求めておらぬ。ただ従え……そんな頼朝のメッセージを受け取った一同はそれ以上誰も反論することなく、景義は固瀬河(現:神奈川県藤沢市)のほとりで泣く泣く景親を処刑。10月26日のことでした。

3ページ目 よくわからないけど褒められた!

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