前回のあらすじ
時は平安末期の治承四1180年、源氏討伐の動きを知った源頼朝(みなもとの よりとも)は、生き残りをかけて挙兵。手始めに伊豆国(現:静岡県伊豆半島)の目代・山木判官兼隆(やまき ほうがんかねたか)を襲撃します。
北条義時(ほうじょう よしとき)は父・北条時政(ときまさ)や兄・北条宗時(むねとき)と共に奮闘、みごとに勝利を収めたものの、敵将の首級は上げられませんでした。
しかし、戦いはまだ始まったばかり。義時たちは生き残ることが出来るのでしょうか……。
前回の記事
源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【四】
恃みの三浦一族は合流できず…石橋山の合戦でボロ負け
さて、目代の山木判官を討ち果たしたことによって伊豆・相模の国衆が徐々に頼朝の元へ参集、その軍勢は300ほどに増えてきました。
「そろそろ伊豆を出て、東の三浦一族と合流しよう」
ちょうどその頃、三浦半島(現:神奈川県東部)の大豪族・三浦大介義明(みうら おおすけよしあき)が頼朝の誘いに応じて挙兵していましたが、その数およそ5,000とも言われる大軍ゆえ、なかなか動きが取れずにいたようです。
「しかし、道中には大庭(景親)めが立ちはだかっており、やはり一戦は避けられんな……」
早くしないと、伊豆半島に閉じ込められてしまいます(現代に比べ、海路は高リスクでした)。大庭の勢力を迂回するのは現実的でない以上、戦うよりありません。
背後から迫って来る伊東次郎祐親(いとう じろうすけちか)の軍勢約300に追い立てられるかの如く進軍した頼朝たちは、8月23日に石橋山(いしばしやま。現:神奈川県小田原市)で布陣。大庭の軍勢約3,000と対峙しました。
ちなみに、伊東祐親は時政の舅であり、頼朝にとっては義理の祖父とも言える存在ですが、実は頼朝が以前、祐親の娘に夜這いをかけて疵物にしたばかりか、子供(千鶴-せんつる)までもうけてしまったため、恨みを買っていたのでした(千鶴は殺されています)。
「あーあ、佐殿(すけどの≒頼朝)が女ったらしでなければ、もしかしたら伊東殿も味方してくれたかも知れないのに……」
「う、うるさいっ!」