「この世で最も美味しいものは、塩です」
かつて、お梶の方(おかじのかた。徳川家康の側室)という女性がそんなことを言ったそうですが、確かに塩加減は料理の満足度を大きく左右するものです。
ただし、当然ながら味覚は個人で違うため、その好みも千差万別ですから、いくら最高級の絶妙な味つけであっても、それが必ずしも万人受けするとは限りません。
今回はそんな味の好みについて、『常山紀談』に伝わる織田信長(おだ のぶなが)のエピソードを紹介したいと思います。
上品な味つけがお気に召さず、殺されかけた料理人
さて、時は信長が河内国(現:大阪府南東部)の戦国大名・三好善継(みよし よしつぐ)を滅ぼした折と言いますから、天正元1573年の暮れから、翌年明けたころのことでしょう。
捕らえた三好の残党に、坪内某(つぼうち なにがし)という者がおり、しばらく獄につながれていたのですが、彼は名うての包丁上手(料理人)であり、その腕前を惜しんだ家臣が、信長に進言しました。
「あの坪内めを、お取り立てなされませ」
ふーん、そうだったのか……何せ好奇心旺盛な信長ですから、関西で親しまれている料理も体験してみたくなったのでしょう。
「ま、腕前を見てから考えることにしよう」
そこでさっそく坪内に料理を作らせたのですが、出汁を利かせた上品な薄口が気に入らなかったらしく、一口食うなり大激怒。
「まったく味がせんではないか!何が包丁上手だ!誰ぞ、この痴れ者を膾(なます。メッタ斬り)にしてしまえ!」
何なら、わしが自ら包丁の使い方をその身に教えてやろうか……今にも斬りかからんばかりの信長に、坪内は「いま一度、どうかチャンスを下さいませ」と平伏します。
(ちっ、最上級の料理を出してやったというのに……田舎者の舌には合わなかったか……)
そう思ったかどうかはともかく、坪内は尾張から取り寄せた豆味噌をベースに、信長の好みもリサーチした上で塩っ辛く味つけしたところ、今度は大満足で平らげてくれて事なきを得られたのだそうです。