親子の確執で切腹? 天下人になり損なった徳川家康の嫡男「松平信康」【前編】

一之瀬 陽平

天下人として江戸幕府を開府し、初代将軍の座に着いた「徳川家康」。家康の後を継いで2代目の将軍となった「秀忠」は三男であった。

家康の嫡男は「徳川信康」といい、わずか21歳で死亡している。寿命を全うしていれば、徳川将軍の座に継いていたかもしれなかった信康。

今回は徳川家康の長男・徳川信康の生涯をご紹介する。

出生から元服まで

信康は1559年に徳川家康(当時は松平元康)の長男として今川領・駿府で生まれた。母親は家康の正室で、今川家に仕える有力家臣・関口親永の娘「築山殿(つきやまどの)」

1600年に起こった桶狭間の戦いによって、今川家当主・今川義元が尾張の織田信長に討ち取られると、父である家康は信長と清洲同盟を結び今川家と敵対する。駿府に置き去りにされた信康と築山殿は結果的に人質となった。

その後、今川方との人質交換によって岡崎城へ帰還。1567年に織田家との繋がりを強めるために、信長の娘・「徳姫」と結婚。共に9歳という若年結婚であった。

元服後は信長より「信」の字を与えられ「信康」と名乗る。1570年、岡崎城主となる。

2ページ目 初陣から切腹へ

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