「ねぇ。今度ウチでホームパーティ開くんだけど、あなたもいかが?」
残念ながら、そんなお誘いを受けたことはありませんが、昔から飲食を共にすることで互いの親交を深める効果が昔から知られており、戦国時代には「汁講(しるこう。汁事)」などと呼ばれる集まりがしばしば開かれていたそうです。
汁とは味噌汁(みそしる)、講とは集まりを指し、主人が味噌汁+αを、客人がご飯+αを持ち寄ってみんなで食べるだけのシンプルな「味噌汁パーティ」ですが、これでも結構盛り上がったという記録が各所に残されています。
「おい、今夜は山田殿ンところで『汁』だから、夕餉の支度は要らぬぞ」
「え?もっと早く言ってくれなきゃ、もう準備しちゃったじゃないの……」
単に「汁」とも呼ばれていたようで、現代で言うところの「お茶にしない?」的な感覚で親しまれていたのでしょう。
そんな汁講がいつから始まったのかは定かではないものの、室町時代末期ごろから公家たちが朝餉の味噌汁を賞味し合った記録が残されており、それが次第に武士や庶民にも広まっていったものと考えられます。
江戸時代には、水戸黄門でお馴染みの水戸藩主・徳川光圀(とくがわ みつくに)が家臣同士の交流を深めてもらおうと汁講を勧めたほどですから、「一つ釜の飯」ならぬ「一つ鍋の味噌汁」を飲む効果は抜群だったようです。
さて、話を戦国時代に戻して、今回は汁講にまつわる明智光秀(あけち みつひで)のエピソードを紹介したいと思います。