前回のあらすじ
天下一の傾奇者?それともただのうつけ者?信長の甥・織田頼長の武勇伝【上】
時は戦国時代末期、織田孫十郎頼長(おだ まごじゅうろう よりなが)は「親の七光りで敷かれたレールの上を走る人生は嫌だ」と、偉大なる伯父・織田信長(のぶなが)を超える「天下一の傾奇者」を目指して遊興三昧。
一方、庶子ゆえに家督を継げない兄・織田源二郎長孝(げんじろう ながたか)は地道に精進して家を興し、関ヶ原の合戦(慶長五1600年)では徳川家康(とくがわ いえやす)率いる東軍に属し、敵将を討ち取る大手柄で1万石の大名に出世します。
大事な嫡男だから、と天下分け目の大戦に出陣させてもらえず、手柄の機会を逃してしまった孫十郎は、庶兄・源二郎への対抗心から、反・徳川の意思を固めていくのでした……。
待ちに待った手柄のチャンス?大阪の陣に参戦するも……。
さて、関ヶ原が終わってからしばらく、身の回りにこれと言った戦さもなく、孫十郎は豊臣秀頼(とよとみ ひでより)に仕える退屈な日々を送っていました。
「ちぇっ、関ヶ原で手柄さえ立てていりゃなぁ……」
いくら「天下一の傾奇者」と嘯いたところで、では「関ヶ原の時はどこで何をしていたか」と訊かれれば、口ごもるよりありません。
そんな孫十郎とは関係なく、関ヶ原で勝利した徳川家康は次第に主君である豊臣家の権力基盤をジワジワと削り続け、いよいよ天下簒奪の野心を露わにした慶長十九1614年、秀頼に対して宣戦布告しました。
「よぅし、次こそ『無双』して大手柄を立ててやるぜ!」
後世「大阪の陣」と伝えられる最終決戦で豊臣方についた孫十郎ですが、与えられた部隊は、雑兵らを掻き集めた一万ばかり。
「何だよ、この扱いは!俺が総大将じゃないのか!」
北川治郎兵衛宣勝(きたがわ じろべゑ のぶかつ)や井上小左衛門時利(いのうえ こざゑもん ときとし)らと共に二の丸・谷町口の守備を命ぜられた孫十郎は、その配置に不満を漏らします。
この俺はあの信長の甥なんだぞ……そう言わんばかりでしたが、周囲の者にしてみれば「だからこそ、何の実績もないお前(≒織田家のブランド)に、雑兵とは言え一万の部隊が与えられたんだよ」と思っていたのかも知れません。
ちなみに、父・織田長益(おだ ながます。有楽斎)は「徳川方のスパイ(表向きは両軍の調停・交渉役)」として秀頼の傍に仕え、庶兄の源二郎は慶長十一1606年に亡くなっています。
2ページ目 「俺を総大将にしろ!」ワガママの通らなかった孫十郎は……