1600年の関ヶ原の戦いに勝利したことで日本の主導権を掌握し、天下人に上り詰めた「徳川家康」。徳川家の母体が三河の松平氏であることは有名だが、松平家の起源には今でも不明な点が多い。
今回は、天下人・徳川家康の起源である松平家の歴史を探ってみたい。
松平家誕生まで
「松平家」の初代当主は「松平親氏(まつだいらちかうじ)」という人物で、新田源氏世良田氏の末裔で、戦に敗れ足利軍に追われていた。捕縛を逃れるために出家し「徳阿弥(とくあみ)」と名乗った親氏は、流浪の末に三河にたどり着く。三河国松平郷の領主であった「松平信重」は親氏を気に入り婿養子として家督を継がせたという。
しかし上述の物語は、後に家康によって粉飾されたものであるといわれており、信憑性は低い。
松平郷に伝わる資料「松平氏由緒書」では、親氏はただの流浪の旅人として書かれており、信重の後を継いだ親氏は近隣の領主の支配に成功し、松平城を築城。戦国大名としての松平家の礎を築いたとされる。
初代の親氏の嫡子、あるいは弟の2代目「泰親」は、同時代の史料にその名を確認することが出来ず、実在を証明できないため上述の歴史は想像の域をでない。
実在が立証されている3代目「信光」
1404年頃に生まれたとされる松平家3代目の「松平信光」。父親は初代の親氏か2代目の泰親であり、はっきりしていない。山岳地帯にあった松平郷の平地進出を成功させ、岩城城を居城とした。松平家繁栄の基礎を作った人物とされる。
1467年から始まった応仁の乱では、守護細川氏の「東軍」に属して、前守護である一色氏率いる「西軍」を破る。戦の中で安祥城を奪取、また五男・光重を西郷頼嗣の娘婿にすることで岡崎城も勢力下に治める。
信光は最終的に西三河を中心に松平家の勢力を大幅に拡大。最後は岩津城で没した。享年は76とも85ともいわれている。家督は三男の親忠が継いだ。