鎌倉駅西口を出てからすぐ、市役所前の信号を左折してちょっと行ったところに、御成(おなり)小学校の信号があります。
古めかしい旧校舎の対面、マンションに溶け込むように石碑が建っていますが、この辺りにかつて問注所(もんちゅうじょ)があったそうです。
問注所って、何だっけ?
歴史の授業でも教わったと思いますが、問注所とは鎌倉幕府に設置された三大政治機関(ほか政所、侍所)の一つで、主に訴訟を取り扱う部署でした。
せっかくなので「問注所舊蹟(~きゅうせき。旧跡)」と題された碑文を読んでみましょう。
【原文】
元暦元年源頼朝幕府東西ノ廂ヲ以テ訴訟裁斷ノ所ト為ス之ヲ問注所ト稱ス其ノ諸人群集シ時ニ喧騒ニ渉ルコトアルヲ厭ヒテ正治元年頼家之ヲ郊外ニ遷ス此ノ地即チ其ノ遺蹟ナリ
大正六年三月建之 鎌倉青年會【意訳】
1184年、頼朝公は御所の廂(ひさし≒庭先)で訴訟ごとを取りさばき、その場所を問注所と呼んでいた。しかし、人々が次々とやって来ては騒ぎを起こすのが嫌になり、2代目将軍・頼家は1199年、問注所を御所より郊外=この場所に移した。
1917年3月、鎌倉青年会がこれを建てる
治承四1180年8月に伊豆半島で挙兵し、ピンチに陥りながらも紆余曲折を経て鎌倉に本拠地を構えた源頼朝(みなもとの よりとも)公は、御家人同士のもめ事を、一件々々自らの御所に招いて聞いていたそうです。
「佐殿(すけどの、頼朝公の通称)、それがしの言い分をお聞き下され……!」
「いえ佐殿、こやつは嘘を申しておりますれば、理はそれがしにこそ……!」
「佐殿!」「佐殿!」「佐殿!」……なにぶん荒くれ者ぞろいの坂東武者をまとめ上げるのは大変な作業で、頼朝公ほどのカリスマなくしては、仲裁もままならなかったことでしょう。
しかし、頼朝公を慕って鎌倉武士団がどんどん膨れ上がるにつれて、次第にもめ事の内容も複雑な案件が増え、御家人たちの正当性アピールも次第にエスカレートして行きます。
その代表例の一つが、武蔵国(現:埼玉県)の住人・熊谷次郎直実(くまがいの じろうなおざね)と、そのおじである久下権守直光(くげのごんのかみ なおみつ)の所領争い。
建久三1192年11月25日、生来武骨な直実は、処世に長けて口も巧い直光に反論できず、その憤りから自分の髻(もとどり。髪)を断ち切って蓄電(ちくでん。逃走)、そのまま出家してしまいます。
※一説によると、直実の出家は一ノ谷の合戦(寿永三1184年2月7日)で自分の息子と同年代の平敦盛(たいらの あつもり)を討ったことが発心の動機ともされています。
直実が敦盛を討った時の物語はこちら
16歳とは思えない風格!悲劇のイケメン貴公子・平敦盛の美しすぎる最期【上】
16歳とは思えない風格!悲劇のイケメン貴公子・平敦盛の美しすぎる最期【下】
この一件でほとほとうんざりした頼朝公は、以後は訴訟を御所で取り扱うのを止め、名越(鎌倉市東部)にあった三善康信(みよし やすのぶ)の館で取りさばくようにしたそうです。
心労のタネを我が家(御所)に持ち込ませたくなかったのでしょうが、三善康信としてみれば、さぞや迷惑だったことでしょう(それでも黙って受け入れる辺りが、「幕府の良心?」たる康信の度量と言えます)。
そして建久十1199年1月13日に頼朝公が亡くなり、改元した正治元1199年4月に現在地に問注所が移転されると、それまでの将軍による独断から「鎌倉殿の13人」が合議して判決を下すシステムに移行しました。
これは2代目将軍となった源頼家(よりいえ)の下す判決があまりにフリーダム過ぎて、御家人たちを納得させられるだけの合理性も、理不尽を黙らせるだけのカリスマもなかった事が理由とされており、次第に幕府のシステムが確立していく過渡期を示しています。
頼朝公と御家人たちの熱狂的な時代が、遠く過ぎ去ろうとしている……そんな寂しい老将たちの背中が目に浮かぶようです。