前回のあらすじ
江戸時代にも活躍していた!武田信玄の軍師・山本勘助の伝説を受け継いだ子孫たち【上】
戦国時代「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄(たけだ しんげん)公に仕え、兵法を駆使した伝説の軍師・山本勘助(やまもと かんすけ)。
そのモデルとなった山本菅助の名前は、その伝説と共に子孫たちへと受け継がれ、初代の名に恥じぬよう奮闘するのですが……。
四代目・山本平一郎幸明
※生年不詳~慶長十1605年没
武田家の滅亡(天正十1582年)時点で父と共に徳川に臣従した記録があるため、それ以前の元服(元服が15歳以上として、永禄十一1568年以前の誕生)と推測されます。
(※元服前の子供については、人質にとられでもしない限り、いちいち記録しないのが自然です)
家督を継いでからは山城国で伏見城(現:京都府京都市)の在番を勤めたり、結城秀康(ゆうき ひでやす。家康の次男)の病気見舞いで羽織を下賜されたりなど、徳川家から篤い信頼を寄せられていたようです。
しかし、子がいないまま慶長十1605年に伏見で急死。徳川幕府は死の直前or直後に慌てて養子(家督後継者)をとる「末期養子」を認めていなかったため、山本家は改易(かいえき。領地没収)。弟たち(弥八郎、素一郎、三郎右衛門)は浪人となり、路頭に迷ってしまうのでした。
五代目・山本三郎右衛門正幸(三代目菅助)
※生没年不詳
「あぁ……弟よ、わしの命はこれまでじゃ……」
「三郎よ、そなただけでも生き延びて、我らが家名を回復してくれ……ガクッ」
「兄上……っ!」
伝説の軍師・山本菅助晴幸の子孫でありながら、その家名を汚し、伝来の所領を失ってしまったショックからか、弥八郎(やはちろう)と素一郎(もといちろう)は相次いで急死。末っ子の三郎右衛門正幸(さぶろうゑもん まさゆき)だけが独り残されました。
「困ったなぁ……しかし挫けてはおれぬ。兄上やご先祖様の名誉を回復するよう、仕官を果たそうぞ!」
そこで三郎右衛門はひとまず、伏見からご先祖様の住んでいた甲斐国に戻り、仕官を求めて江戸との間を往復する日々を送るのですが、自分自身にはこれと言った軍功もなく、「伝説の軍師の孫」というブランドだけでは、なかなか色よい返事も貰えません。
そうこうしている内に元和元1615年を迎え、豊臣家を滅ぼした徳川幕府によって「元和偃武(げんなえんぶ。武をふせる≒戦乱の世の終わり)」が宣言されてからは仕官もいっそう厳しくなり、気づけば二十年以上の歳月が流れていました。
「兄上、ご先祖様がた……申し訳ございませぬ……」
すっかり意気消沈してしまった三郎右衛門は、重病を患ったか、あるいは世の儚んだのか、いつしか出家して英琢(ゑいたく)と称していましたが、ここでは便宜上「三郎右衛門」で統一します。
2ページ目 「勘助ファン」な水戸藩主からオファーが来るも……?