本能寺の変で安土城を焼いた真犯人は?明智光秀の娘婿・明智秀満が無実と主張する根拠を紹介

明智光秀(あけち みつひで)の娘婿となり、その片腕として文武両道の活躍を見せた明智秀満(あけち ひでみつ)

一説には、主君・織田信長に対して謀叛(クーデター)すべきか悩んでいた光秀の背中を押して決起せしめたとも言われ、歴史の転換点における重要な役割を果たしました。

さて、後世「本能寺の変」と呼ばれるこの一大事件において、信長の築き上げた天下に比類なき名城「安土城(あづちじょう。現:滋賀県近江八幡市)」が焼け落ちてしまいます。

その犯人について、古来「(当時安土城を占領していた)明智秀満が火を放ったせいだ」とする言説が流布していますが、それは「負ければ賊軍(※勝てば官軍、の対語)」の心情で、不都合の全責任を明智軍に押しつけようとしているだけです。

どうしてそう言えるのか、又それなら安土城を焼いた真犯人は誰なのか、今回はその辺りについて紹介したいと思います。

秀満が安土城を占領するまで

明智秀満の出自や前半生については諸説ありますが、ここではひとまず天文五1536年生まれ説を採用。幼名を岩千代(いわちよ)、元服して三宅弥平次(みやけ やへいじ)と称します。

その後、天正六1578年以降に光秀の出戻り娘を妻に迎えたことで婿となり、明智秀満と改名しました。彼女は信長の家臣である荒木村次(あらき むらつぐ)に嫁いでいましたが、舅である荒木村重(むらしげ)が謀叛を起こしたため、離縁されてしまったのでした。

正直「いわくつき」の縁談ではありましたが、秀満はこれを快諾。光秀への篤い忠義が、彼女に対する深い愛情にもつながっていった事でしょう。

天正九1581年には丹波福知山城(現:京都府福知山市)の城主となり、光秀が茶会を開いた際には天下三大茶匠の一人として知られた津田宗及(つだ そうぎゅう)を招いてその饗応役を務めており、相当にハイレベルな教養を備えていたことが判ります。

そして天正十1582年6月2日未明、運命の本能寺では先鋒を任され、光秀からの信頼に応える戦果を上げた後、6月5日には信長の本拠地である安土城を占領したのでした。

3ページ目 秀満が安土城を焼かなかった理由

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